3月17日(日)礼拝説教全文 説教者:山下健太神学生
「神との平安」 イザヤ書53:4-6 山下健太神学生(東京キリスト教大学神学生)
はじめに
勝田台キリスト教会での実習もあっという間の1年が過ぎました。私たち家族を、愛をもって受け入れて下さり、本当にありがとうございました。共に礼拝し、共に交わりができたこの1年はかけがえのない時となりました。今日は実習の最後の御用として、「神との平安」というテーマで神様からのメッセージを取り次がせていただきます。
平安・平和は、聖書の原典原語であるヘブライ語で「シャローム」といいます。この「シャローム」は、現代のイスラエルでも、「こんにちは」や「さようなら」などの日常的な挨拶として使われる言葉です。朝でも、昼でも、夜でもシャローム、出会いの時も、別れの時もシャローム、どんな時でもシャロームです。
今日は、この平安、シャロームについて皆さんと共に考え、実際にイエス・キリストから平安をいただける礼拝となれば幸いです。それでは、①シャロームとは何か、②苦難のしもべ、③平安の約束、の3つのポイントでメッセージを進めていきます。
1.シャロームとは何か
パウロ書簡の初めや終わりに、必ず用いられる挨拶があります。それは、「“平安”が、あなたがたにありますように」という挨拶です。これは、伝統的なユダヤ教の挨拶ですが、シャロームの本来の意味は、非常に豊かです。
①争いのない、平和な状態(個人での争い、国家での戦争)
②目に見える状況における平穏、安全、無事
③物質的な繁栄
④肉体的、精神的な健康、健全さ、心の充足、静けさ
⑤人間関係における和解、友情、平和
皆さんが平安を感じる時、また取り去られる時はどのような時でしょうか。目まぐるしく進んで行く日常の中で平安な時はない!という感じでしょうか。悲しみ・孤独・病や死への恐れが心を支配し、平安とは程遠い状態にいるという方もいるでしょう。
世界では、ロシアとウクライナ、イスラエルとハマスとの間で、終わりが見えない争いが続いています。NHKの特集で、ウクライナの兵士に密着する番組が放送されていました。民間人が兵士になり、人を殺さなければならなくなりました。「最初は恐れがあったが、自分がやらなければ家族が殺されてしまう。だからそのような行動をとらなければならない。」と言っていました。戦争が終結したら平和になるだろうとは簡単には言えません。外の環境はそうだとしても、心の傷は戦争が終わってもその人を苦しめ続けるでしょう。この傷を癒すことのできる平安はあるのでしょうか。
私たちにとって最も大切で、クリスチャン生活の支えとなる平安。それは、「神様との関係における平和、平安」です。それは、「神の怒りから解放され、霊的な救いを受けている」ということです。シャロームがもつ、全ての意味の根源、源泉がここにあります。イスラエルには、シャロームを使った挨拶の仕方にこのようなものがあります。「マ シュロムハ?」日本語であなたのシャローム・平安はどうですか?(英語How are you?)という意味です。この本質的な意味は、「あなたと神様との関係はシャロームですか?平安ですか?」ということです。私たちは、常に、神様との関係において平安があるかどうかが問われています。その平安こそが、私たちが持つべき平安であり、これがなければ信仰生活が崩れてしまう程の大切な土台だからです。
では、この神との関係におけるシャロームはどのようにもたらされるのでしょうか。
2.苦難のしもべ
(1)導入 イザヤ53:4-6
4:彼が担ったのは私たちの病/彼が負ったのは私たちの痛みであった。/しかし、私たちは思っていた。/彼は病に冒され、神に打たれて/苦しめられたのだと。
5:彼は私たちの背きのために刺し貫かれ/私たちの過ちのために打ち砕かれた。/彼が受けた懲らしめによって/私たちに「平安」が与えられ/彼が受けた打ち傷によって私たちは癒やされた。
6:私たちは皆、羊の群れのようにさまよい/それぞれ自らの道に向かって行った。/その私たちすべての過ちを/主は彼に負わせられた。
このイザヤ書は、紀元前8世紀頃にエルサレムで活躍したイザヤという預言者によって執筆されました。約60年間神に仕えた偉大な預言者です。(神のことばを誤りなく伝え、将来起こることの預言をした。)
イザヤの預言であるイザヤ52:13~53:12は、苦難を受けるしもべが描写され、そのしもべの死、埋葬、復活が明確に示されている預言と言われています。特にキリスト教の伝統では、メシア(に関する)預言と認識されている箇所です。この4-6節は、特にしもべが私たちの身代わりに苦難にあうという描写に焦点があります。この「彼」と言われている存在こそ、苦難のしもべであるイエス・キリストです。そして、「私たち」とは、直接的にはこの預言を語っているイザヤを含むイスラエルの民のことですが、広い意味では、今のこの時を生きる私たちも含まれています。イザヤはメシアの苦難が私たちに平安と癒しを与えると語っています。
(2)身代わりの苦しみ
4節をご覧ください。彼すなわち主のしもべイエス・キリストは私たちの病や痛みを担われるお方であることが強調されています。この「担う」と訳されているヘブライ語は、動物のいけにえに人の罪を負わせるという文脈で使われる言葉です。完全な聖さをもつ神に近づくためには、人間の罪を清める必要があります。そのために神が提示して下さった方法は、人の罪を清めるため、動物のいけにえを用意し、そのいのちを犠牲として支払うことでした。すなわち、メシアは、私たちの身代わりとなって支払われた犠牲のいけにえであるということが示されています。この箇所は、マタイ8:17で引用されています。
17:こうして、預言者イザヤを通して言われたことが実現した。/「彼は私たちの弱さを負い/病を担った。」
このイザヤによるメシア預言は、イエス・キリストによって成就されたと言います。
しかし、当の私たちは、メシアが苦しむのは、彼自身の罪ゆえに神から当然の罰が下っているのだ、という誤った理解をしました。イエス・キリストは、多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、メシアしかできないとされる奇跡を数多くしました。しかし、イエスは、イザヤ53章で預言されたメシアだとは理解されませんでした。イスラエルの民は、イエスのことを、神を冒涜し、サタンの力によって奇跡を行っていると理解し、それゆえ神からの罰が下るのだと結論づけたのです。しかし真実は違います。それは、私たちのためでした。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」のです。イザヤはメシアの身代わりとしての苦しみを強調しています。
(3)身代わりの死
5節をご覧ください。この箇所は、メシアの身代わりの死に焦点が当てられています。
メシアは、刺し貫かれます。それは、表面的な傷ではなく槍や剣で刺し突かれ穴があくほどの傷で、死をイメージさせるものです。メシアは打ち砕かれ、打ち傷を負います。それは、徹底的な鞭打ちや殴打による皮膚の傷や腫れです。しかも、ここまで悲惨な仕打ちを受けた理由は、自分自身ではなく、私たちの背きと過ちのためでした。これは、メシアが私たちの罪の身代わりとなってこの傷を受けてくださるということを示すものです。なぜ、メシアはこれ程の刺傷、打ち傷によって血を流し、死に直結するほどの傷を負う必要があったのでしょうか。この答えが今日のメッセージのポイントになります。それは、私たちに「平安と癒し」を与えるためだというのです。良い人のために犠牲を払うことはあるでしょう。しかし、罪びとのために、しかも罪びとに良いもの与えるために自らを犠牲にすることは、普通に考えたらあり得ないことです。しかし、イエス・キリストはそのような常識を打ち破り、この預言の成就となってくださいました。
この「刺し貫かれた」「打ち砕かれた」「打ち傷」という描写は一体何を現わしているのでしょうか。皆さんはすぐに思い浮かぶはずです。それは、イエス・キリストが受けた十字架の苦しみ、そして死です。本当は、私たちが神様に背いた罪の罰として裁き受けなければなりませんでした。しかしイエス様は、身代わりとなって十字架にかかり死んで下さいました。それは、私たち罪びとを解放し、神との関係に平安をもたらすためでした。
(4)罪深さの告白
6節をご覧下さい。この箇所は、私たちがついに自らの罪深い状態を認識し、告白すると語られています。私たちは、なぜメシアが苦難を受けているのか理解できていませんでした。私たちは羊の群れのようにさまよい、自らの道に向かったとあります。さまようというヘブル語には、実際に道に迷うことや心の迷いが生じるということに加え、真の神ではなく偶像礼拝に陥り、大きく道を踏み外すという意味がある言葉です。羊は、視力が悪く、すぐに道が分からなくなります。私たちはそのように、真の救い主であるイエス・キリストがそこにいるにも関わらず、頑なに認めず、自分勝手な道に進んでしまうという過ちを犯しました。しかし、神は私たちに平安を与えるために、その過ちをイエス・キリストにすべて負わせました。コリントの信徒への手紙二5章21節のこのような御言葉があります。
21:神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
罪を負ったイエス・キリストは、鞭打たれ、手と足を釘によって刺し貫かれ、血を流し、十字架上で死なれました。罪を贖うための完全ないけにえとなられたのです。キリスト教の救いとは、神の裁きと怒りからの解放です。罪びとであった私たちに対する裁きと怒りは、すべて十字架上のキリストに注がれました。それゆえ、私たちは神の怒りから解放されました。そして、神様との平安な関係、シャロームが与えられたのです。
冒頭に、シャロームというヘブライ語の意味をお話ししました。このヘブライ語というのは非常に豊かで多様性のある言語です。それぞれの単語には、必ず語根という根っこの言葉が存在します。その語根から様々な単語が派生し、ヘブライ語という言語を形作っています。この語根や他の派生した単語の意味を知ることで、更にヘブライ語の深みを味わうことが出来ます。シャロームとは、安全、繁栄、人や神との平安な関係を現わす言葉でした。このシャロームの語根は、シャーレームという単語で、「完全になる」という意味を持ちます。ここから派生してシャロームという言葉が生まれました。また、他の派生語に、シッラムという単語があり、「負債を支払う」という意味を持ちます。今日のメッセージから、これらの言葉がすべて結びつきませんか。負い目が支払われ、完全に関係が修復され、シャロームになり、神との完全に平安な関係になる。そして、それら全イエスによって全て成就しているということに気づくのです。このシャロームという言葉の中に含まれる神の救いのご計画の深さに感動を覚えます。
3. イエス・キリストからの平安の約束
(1)イエスが与える平安
イエス様が十字架にかかる前夜、12人の使徒たちとの最後の晩餐を終えた後、イエス様はその場で使徒たちへの平安の約束と励ましの言葉を残しました。
ヨハネ14:27:私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ここでは、イエスが残し、与えて下さる平安とこの世が与える平安が対比されています。私が生きてきた中で平安を感じたことはいつかなと思い返しました。結婚した時、初めての給料をもらえた時、昇進した時、TCUに入学出来た時、これらの経験は平安だったと思います。しかし、時がたてばその時の平安は消えていきます。この世が与える平安は一時的な平安です。他方、イエス・キリストが与える平安は、神との関係性が完全であるという平安です。恐れはすべて取り去られました。あるのは神との完全な平和と愛の関係性です。イエス・キリストを救い主として信じた者はこの平安を既に持っています。永遠に取り去られることはありません。なぜならば、この平安を与えるために、イエス様が十字架上で完全に負い目を支払って下さったからです。私たちは支払うことができません。イエス様が全て成し遂げて下さいました。平安の真実性、土台は神にあります。それゆえ決して揺らぐことがない永遠の平安として安心して受け取れば良いのです。
(2)あなたがたに平和があるように
しかし、そうは言うけれど、失敗をしてがっかりすることや、人間関係で傷を受けた、経済的な不安や将来のへの不安がある、そして死の恐怖に襲われるなど、心配と恐れで心が騒いでしまうこともあるでしょう。
この約束を受けた使徒たちでさえ、イエス様が十字架で死んだ後は、ユダヤ人たちに捕まることを恐れ、家の中に籠っていました。けれどもその時、復活されたイエス様が弟子たちの前に現れ、こう語ります。
「あなたがたに平和があるように」
この言葉はヨハネ20章で3回繰り返されているイエス様からの言葉です。イエス様は私たちが不安になったとしても、何度でも「あなたがたにシャロームがあるように」と励まして下さいます。このイエス様の言葉を聴き続けること、意識し続けることが大切です。復活されたイエス様は、最大の敵である死に勝利されたお方です。そのお方が「シャロームがあるように」と声をかけてくださいます。私たちは神様との完全な平安の関係の中に生きていることを忘れないで下さい。この安心感はすべての恐れと不安に立ち向かうことができる力を持っていて、クリスチャン生活を支える根源になるものです。もし、まだ、この平安を受け取っていない方がいるならば、ぜひイエス様を信じ、シャロームをいただいてください。
最後に、もう一度聞きます。「マ シュロメハ? あなたと神様の関係はシャロームですか?」
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