3月10日(日)礼拝説教全文
「イエスは道」 ヨハネ14:1~6
この聖書の箇所は、キリスト教の葬儀で読まれるところです。
愛する者を失った大きな悲しみの中に沈む、遺族・参列者が葬儀で最初に聞く聖書の言葉、イエスの言葉です。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」
この箇所は、最期の晩餐の席でイエスが弟子たちに語られた告別の説教です。ヨハネによる福音書の最後の晩餐での説教は、山上の説教に続く最も長い説教で、14~16章(17章は祈りの言葉)と3章にわたっています。イエスにとっては、弟子たちに話せる最後の機会でもありました。
「心を騒がせてはならない。」これから目の前にいる弟子たちの身に起こることを知っておられて、イエスが言われています。この後、彼らの心は、大いに騒ぎ乱れます。大きな衝撃・絶望・不安・恐れの中に陥ることになります。彼らが全てを捨てて従った師であるイエスが十字架にはりつけにされ、それ故、彼らは悲しみの中に突き落とされ、途方に暮れるからです。
愛する者を失い、又、自らの死が迫る、とてつもない大きな試練の中でどうしてよいかわからない、途方に暮れるような時に、私たちもイエスの言葉を聞きます。「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」
なぜ心を騒がさないでよいのでしょうか。
「私の父の家には、住まいがたくさんある。あなたがたのために場所を用意しに行くのだ。」
心配するな。恐れるな。私が父なる神のもとへ戻るのは、あなたのために場所を用意しに行くためだ。
「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。」
あなたの為の用意・準備ができたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎える、とイエスは言われます。
「私のいる所に、あなたがたもおらせるためです。」
私の行く場所(父のみもと)へ、あなたがたも来ることになる。
そして、「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と弟子たちに言われます。
「私が行って、天国にあなたの住まいを用意する」とおっしゃっています。このような言葉をあなたは聞いたことがありますか。
さて、「あなたがたはその道を知っている」とイエスが言われていますが、あなたは知っていますか。
弟子のトマスは、「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道がわかるでしょう」と答えています。あなたがどこへ行かれるのかわかりません。どのようにしてその道を知ることができるのか、その場所までどうやってたどりつけるのでしょうか。
「私が道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。」とイエスは言われます。
歴史の中には 道を語り、道を示す、多くの宗教家、哲学者、思想家、指導者達もいました。
しかし、イエスは、「わたしが道である」と言われました。
* 私の救いの証し
イエスを信じ、イエスに、イエスの言葉に従い続けていくことこそが、父の家(天の御国)に至る唯一の道です。「私を通らなければ」―――どんな修行も、律法・法律を守ることも、いかなる神々への信心も、正しく生きようとしても、善に励んでも、おだやかに幸せに寿命を全うしても―――だれひとり(例外なく)、父のみもと(天の国)には行けません。イエスが、父のもとへ行く唯一の道です。
別の角度から言いますと、イエスがご自身の命をもって開いて下さった価値ある唯一の尊い道です。あなたがこの道を通れるように、あなたの罪を身代わりとなって清算する為に、イエスは神の怒りと呪いを受け、死んでくださいました、それが十字架です。イエスの恵みの御業(イエスの十字架の死)によって、すでに、救いの門は開いています。あなたはその福音を、ただ信じるだけで受け取れるのです。何かをしなければ、という私たちの努力・能力や持ち物によらず、血筋や資格によるのでもありません。全ての人に対して成し遂げられたイエスの救いの御業です。
イエスが成し遂げられた私たちのための唯一の救いの道、十字架だけが生きる道です。
あなたもイエスの招きに答えて、イエスを信じ、この道を歩みませんか。
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