3月24日(日)礼拝説教全文
「誰がイエスを十字架につけたのか」 ヨハネ19:9~22
本日は棕櫚の聖日、イエスが十字架に架けられる一週間前に、エルサレムに入城された日です。本日から受難週に入り、(参考 レント「受難節」は2月14日~3月30日 47日間)、今週金曜日29日を私たちはイエスが十字架につけられた受難日として覚えます。そして次週日曜日3月31日、イエスが死んで三日目に復活されたイースター(復活祭)を記念いたします。
本日の説教題、「誰がイエスを十字架につけたのか」という問いは、この受難週においてとても大切な問いです。誰だと聖書は私たちに教えているでしょうか。
ローマの兵卒でしょうか
ローマの兵卒が太い釘で、イエスを木の十字架に打ち付けました。手のひらではなくて手首であるとも言われます。両手と両足に釘が打たれ、十字架が立てられる時、自らの体の重みで、釘で打たれた肉が裂けます。木に釘で人を磔にする恐ろしい処刑の道具、それが十字架です。現代にこのような刑があったなら、その恐ろしさと残酷さのゆえに目を向けることもできないでしょう。
イエスを裏切ったユダでしょうか
十二弟子のひとりのユダがイエスを裏切って、祭司長たちに引き渡しました。イエスのもとから逃げ去った弟子たちも同じです。ユダの裏切りの動機は明らかではありませんが、三年間、イエスを愛し、師と仰いで従ってきた弟子、イエスご自身が選ばれた弟子のひとりです。金銭の為か、イエスへの失望か、彼の中にサタンが入り、光から闇に捕らわれていく弟子、それがユダです。
当時の宗教的指導者(祭司、律法学者、パリサイ人)でしょうか
福音書の中では、何度もイエスに対する彼らの殺意が記されています。元々、サドカイ派(祭司)とパリサイ派(律法学者)は与党と野党の様に対立の関係にありましたが、イエスという彼らの共通の敵のゆえに結託します。妬みと、保身の為に、違法な裁判を行い、偽りの証言をしました。「イエスは自分を『ユダヤ人の王』と呼んで、民衆を扇動し、ローマ、皇帝に反逆している。」確かに十字架の上に付けられたイエスの罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。
ポンテオ・ピラトでしょうか
当時のローマの総督ピラトが、イエスの死刑の判決を承認しました。彼はイエスに罪に当たるものは何もないことを知っていました。イエスを訴える者たちの陰謀も知っていました。妻からもイエスに関わらないように助言されていました。(マタイ27:19)どちらかというと、彼はイエスに好意的で、彼を釈放する権限(19:10)を持っていました。最終的な決定権はピラトにありました。イエスを釈放するために強盗で人殺しのバラバを引き合いに出しています。しかし、彼は保身の為に自らの責任を放棄し、イエスを訴える人々にイエスを引き渡します。使徒信条において「主は・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と彼がイエスを十字架に引き渡した人物として、今日まで悪人として語られ、告白されています。
民衆でしょうか
本日は棕櫚の聖日で、民衆はイエスを「ホサナ!イスラエルの王に」(12:13)と棕櫚の葉を持ってイエスを大歓迎してエルサレムに迎えています。同じ民衆なのでしょうか。以前からそう思っていますが、今でも疑問です。一週間もたたない間に「イエスを十字架につけろ」と叫んでいます。心変わりした民衆が、祭司長や律法学者たちに扇動された民衆が「イエスを十字架につけろ」と叫びました。
「誰がイエスを十字架につけた」のでしょうか。聖書は何と言っていますか。ローマの兵卒ですか。ユダですか。祭司長・律法学者たちですか。ポンテオ・ピラトでしょうか。心変わりする愚かな民衆でしょうか。
ピラトは、何も言わないイエス対して、「私にはあなたを釈放する権威も、十字架につける権威もある」(:10)、最終的な決定権は私にある、と言います。しかし、主イエスは、「神の許しなしには、あなたには何の権威もない。あなたよりむしろ、私をあなたに渡した者にもっと大きい罪があります」(:11)と言われています。
さて、11節。イエスを「十字架に渡した者にもっと大きな罪があります」というイエスのことばに最後に注目したいと思います。
イエスを十字架に、ピラトに、渡した者とは誰なのでしょうか。直接的には祭司長、パリサイ派の人々、当時の宗教的指導者たちでしょう。罪のない正しい人、イエスは十字架につけられます。
イエスを十字架に引き渡したのは誰でしょうか。 *映画「塩狩峠」で
「イエスは私たちの過ち(罪過:口語 背きの罪:新改訳)のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです」(ローマ4:25)
これがわかると、ここにいる私、あなたと2000年前の主イエスの十字架が結びつきます。
そして、十字架の出来事によって、今ここにいる私の過ち、罪過、背きの罪が、イエスの死によって、(命の代価が払われる事で)、赦された事を知ります。
イエスを十字架につけたのは わたし、あなたであり、わたしの罪、あなたの罪です。
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)。「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受ける事ができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの購いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」(:ローマ3:23~25)。
誰がキリストを十字架につけたのか。それは、ユダヤ人であり、ローマ人であり、また、私たち自身であります。しかし、最も注目すべきは、父なる神が御子を十字架にかけることをよしとされ、御子イエスが進んで十字架にかかってくださったという事実です。ここに、神の愛があります。
私と2000年前のこの世に来られたイエスとの関りは、私が、私の罪がイエスを十字架につけたという事実です。イエスに足を洗っていただくのでなければ、罪を洗っていただくのでなければ、イエスと私達は何の関係もありません。
三浦綾子 「塩狩峠」から
「永野君、君はイエスを神の子として信ずると言いましたね。そして、キリストに従って一生暮らすと言いましたね。人の前でキリストの弟子だということもできると言いましたね」
信夫はハッキリとうなずいた。
「しかしね、君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか」
信夫はちょっとためらってから、
「先ほど先生は、この世のすべての罪を背負って十字架にかかられたと申されましたが・・・」
「そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、
いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか」
伊木一馬の目は鋭かった。
「とんでもない。ぼくは、キリストを十字架になんかつけた覚えはありません」
大きく手をふった信夫をみて、伊木一馬はニヤリと笑った。
「それじゃ、君はキリストと何の関係もない人間ですよ」
その言葉が信夫にはわからなかった。
「先生、ぼくは明治の時代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか」
「そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ。
君は自分を罪深い人間だと思いますか」
正直言って、信夫は自分をまじめな部類の人間だと思っている。
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