3月31日(日)イースター礼拝説教全文
「信じる者になりなさい」 ヨハネ20:24~31 イースター礼拝
イースターおめでとうございます。イエスがよみがえられた、この記念の日を心からお祝い致します。イースターのお祝いと共に、召天者記念礼拝となります。聖書の約束の通り、遠くない未来、イエスを信じて天に召された者たちは、やがてラッパの号令と共に、復活させられます。天にその名を記され、名を呼ばれる者は幸いです。召天者のお名前をお呼びしたいと思います。私達もやがてこの中に名前を連ねる者となります。
本日はイエスの復活の記事を、福音書全体から読み、その中からヨハネの本日の箇所をピックアップして読みたいと思います。
先週は受難週で、イエスの十字架とその苦難の記事を読みました。
イエスはゴルゴダの丘で十字架につけられ、6時間大勢の人々の前にさらしものにされ、ついに息を引き取られました。その死の確認の為に、兵士がイエスのわき腹を槍で刺し通し、血と水とが流れ出たとあります。
イエスの遺体は、十字架から降ろされ、裕福で高名な議員であったアリマタヤ出身のヨセフという人物の新しい墓に埋葬されました。金曜日の夕方、過越しの祭り・安息日の準備の日の出来事です。
その日、祭司長・パリサイ人は、ピラトに願い出て言います、「長官、あの偽り者が、まだ生きていた時に『自分は三日の後によみがえる』と言ったのを思い出しました。ですから、三日目まで人が墓の番をする様に指図をして下さい。」それ故に、イエスが納められた墓の墓石は封印が施され、番兵が数人配置されます。(マタイ27章)。このような厳戒態勢の中で本日の出来事が起こります。
1、 封印され、番兵を置かれた墓
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つの福音書が揃って証言していることは、「週の初めの日、朝早く」(まだ暗いうちに)です。それで、イースターに早朝礼拝をする教会もあります。
イエスが十字架で死んで、葬られてから三日目の朝、突如として事が起こります。
大きな地震が起こり、石の封印が解かれ、墓の入り口の大きな石の蓋が取り除かれました。恐ろしくなった番兵は、その場を逃げ出します。
聖書の語る事実が実に興味深いのは、何度も「私は三日目に復活する」とイエスから聞いていた弟子たちがそのことばを思い出すよりも、イエスの反対者たちがその言葉を思い出して恐れたという内容です。
一方、その事を知らぬマグダラのマリヤと数人の女性達は、取り急いで墓に葬られたイエスのお体に丁寧な埋葬をするために、香料を持って墓に出かけました。しかし、そこに見たものは何だったでしょう。封印が解かれ、脇にころがっている大きな石、番兵も誰もいない、ぽっかりと口を開けた墓でした。
恐る恐る中に入ってみますと、彼女らに御使いが現れます。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5)彼女らは急いでこの出来事を主の弟子達に伝えます。
2、 最初に「主の復活」の証言・福音を聞いた人々
聖書の記事には(マルコ16章では)、復活されたイエスのことを聞いた人たちは、「信じなかった。彼らは信じなかった。信じなかったのである。」とあります。イエスは信じない彼らにご自身を何度も現されて、彼らの不信仰と、かたくなな心をお責めになられます。彼らは、「復活されたイエスを見た人々の言う事を、信じなかったからである」(マルコ16:14)とあります。他の福音書も、主が墓から、死人の中から復活されたと伝え聞いた弟子達、人々の皆が信じなかった、と記しています。確かにイエスは十字架で釘を打たれ、血を流され、わき腹を槍で刺し通され、死んで墓に葬られました。何かが原因で死んで蘇生した人とは全く違います。確かに、確実に、死なれたのだからです。
信じなかった彼らを責めることはできません。むしろ信じなかったという記事こそ真実です。イエスの復活の出来事は、信じられる出来事ではないからです。あり得ない出来事、私達の知識・経験・常識の範疇にはありません。
イエスの復活を、イエスを信じられない理由とする人がいます。「こんな非科学的な馬鹿げた、ありもしないことを信じているなんて!だからキリスト教は信じられない。」「私はキリストを信じたいのですが、このキリストの復活が信じられません。信じますと本心から言えないのです。」
あるキリスト教の牧師は、「いや、復活を信じなくてもいいんですよ。イエスがあなたの罪の為に十字架で死んでくださったことを信じるならあなたは救われるのですから。」「イエスの復活が事実か、事実でないかは問題ではありません。」という人もいます。果たしてそうでしょうか。イエスの復活を信じない教会、クリスチャン、牧師が相当数いると聞きます。イエスの復活の知らせを聞いた人々が「信じなかった」と聖書が伝えていることを知ってください。
イエスはそんな私たちをご存じです。それゆえに、「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒言行録1:3)とあります。
3、十二弟子の一人トマス
そのような中で、本日朗読していただいた聖書箇所で、著者ヨハネは、共にイエスに従って来た十二弟子の一人トマス(デドモと呼ばれているトマス)について記しています。トマスは週の初めの日の夕方、弟子達と一緒にいませんでした。復活されたイエスに会う機会を逃しました。そして、仲間の弟子たちが復活されたイエスに出会ったと言う事を信じません。
トマスは彼らに言います「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」(:25)
そのような状態にあっても、トマスは弟子達と共に行動していたことがわかります。
教会学校では、「疑い深いトマス」と言われたりもしますが、彼は正直な人であり、勇気のある、真実な人であったと言えます。適当に周りに流され、信じてもいないのに「私も信じます」とは言えないのです。
そしてついに、翌週日曜日、イエスはトマスにも現れます。ご自身の手と脇腹を見せて言われます。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」
今日、このイースターの朝、復活されたイエスは、ご自身の御許に集う人々に聖書のことばによって、2000年前と同じように語ってくださいます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエスは、死者ラザロを生き返らせる前に、マルタに言われました「私はよみがえりであり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。あなたはこれを信じるか。」
私たちはイエスを今、目で見ることはできません。しかし、教会は目に見えるキリストのからだです。私たちは父、御子、御霊なる神の前に集う者たちです。
結びの言葉をもう一度読みましょう。(:30~31)
ヨハネがイエスの生涯を書き記したその目的は、今ここにいる私たちに対して「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によって命を得るためである」(:31)とあります。
この朝も主イエスは ご自身を聖書と教会を通して現され、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われます。
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