4月7日(日)礼拝説教全文
「イエスによって目が開かれた者」 ヨハネ9:1~12
聖書教会共同訳見出し「生まれつき目の見えない人を癒す」
旧約聖書に預言されているメシアにしかできない奇跡(しるし)があります。
イザヤ35:5「その時、目の見えない人の目は開かれ、聞こえない人の耳は開かれる。その時、歩けない人は鹿のように跳び跳ね、口の利けない人の舌は歓声を上げる」
ヨハネの福音書に記されている第六のしるしは、神の御子が人となられて私たちの間を歩まれたしるしです。(単なる奇跡でなく)
生まれながらの盲人の目が開かれ、見えるようになる。 1..水がぶどう酒に変わる 2.役人の息子のいやし 3..三十八年間病気の人のいやし 4..五千人の給食 5..湖上歩行 6..生まれつきの盲人のいやし 7.ラザロのよみがえり (8.イエスの復活)
見えない人が、見えるようになる。
1、人の不幸・禍は、何ゆえか(:1~5) 私たちの身に起こる禍
不幸な出来事や、病は、誰かの罪に対する報いと考えられていました。因縁、呪い、祟り、迷信、占い、因果応報(仏語)という言葉があります。良いことをすれば良い報いがあり、悪いことをすれば悪い報いがある。その様な考え方は悪いものでもありません。親の悪行が子に報い、自分の悪行が自分に報いということもあります。私たちは、どうやらこのような因縁に捕らわれやすい者たちです。
新興宗教の多くは、そのような悪の報いに対して、悪の報いを断ち切るため、お布施や、何かの供養を求めます。
それは、イエスの時代も、現代の文明が進んだ私たちの時代も変わることがありません。
「この人が生まれつき盲人なのは、この人の罪が原因か、または、この人の両親が罪を犯したのが原因か」と原因を究明します。
病気や、不幸な出来事、災いの原因をそのように考えると、さらに私たちの苦しみは増し加わります。
不幸・病気・禍の原因は何か。なぜそのようなことが起こるのか。その理由は何か。そして、自分の何がいけなかったのか?というものです。
旧約聖書のヨブ記のテーマは「義人が何ゆえに苦しむか」です。財産を全て失い、子供達を全て失い、健康を失い、妻から罵倒され、友人から責められるヨブという人物がいます。神に「地上には彼ほど完全で、正しく、神を畏れ、悪を遠ざけている者はいない」(ヨブ1:8)とまで言われた人物です。
何一つ、彼は禍を受ける罪を犯していませんでした。それどころか、ヨブほど神の前に正しい人はいなかった、と聖書は記しています。
ヨブは、耐えることのできないような苦悩にも、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」「私たちは
神から幸いを受けるのだから、禍をも受けなければならない」と答えています。
そんなヨブに、次から次へと、耐えられない苦しみが襲います。
財産を失い、家族を失い、健康を失い、重い病に苦しみます。全ての苦しみ・試みに対して、神の前に呪いの言葉も、つぶやきも、不満も口にしなかったヨブでした。しかし、これまで不動・不屈のヨブが、最後にある試みの故に、自分が生まれたことすら呪います。その苦悩とは何だったでしょうか。
それは、友人が、あなたがこのような禍に遭うのは、何か神の前に罪を犯したからだ、という非難・主張です。今ある不幸は、あなたの罪が原因だ。そう、まさに、この禍の原因は、あなたの罪、あなたの親の罪、あなたの身内の罪というものです。
時に私たちは、他者に対して、自分に対しも そのように「不幸」を解釈します。
しかし、イエスは、そのような答えにNOと言われます。
「なにゆえに、私だけが、このように不幸なのか」という問いに、そうです、生まれつきの盲人のみならず、そのような疑問、苦しみ、悩みをもつ全ての人に対して、イエスは誰も聞いたことのない答えを語られます。
* 時に、病気が治らないのは信仰が足りないから、祈りが足りないからという言葉を聞きます。…これは、とんでもなくひどい言葉です。ついつい自分の信仰は強いと思う人はこのような言葉を使います。
イエスは言われます。この人が生まれつき目の見えないのは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」
「神の業がこの人に現れるためです」(:3)
驚くべきイエスの回答です。
イエスのいない、神のいない世界に生きる者は、禍は何かの因縁であるとしか言えない世界にいる者です。
しかし、「世の光」であるイエスの立たれる世界は、禍に合う時に、禍だと言われる時に、神の業が現わされる時だ!と人は、私たちは知るのです。そして、イエスによる、イエスの臨在による新しく開かれる真理を目撃します。ぼやけていた覆いが取り除かれて、神のまことが明らかにされるのです。
「私は信仰の生涯で、まさに苦しみ・禍の中に、イエスの偉大な業を経験し、目撃してきました。」
キリスト者のほとんどの証詞と言われるものは、「苦難の中でイエスに出会いました、イエスの恵みを知りました、イエスに救っていただきました」というものです。いや、解決のない中にあっても、苦難の状況がどのようにも変わることがない中にも、神への感謝の言葉を心から発するのです。
病床にあるクリスチャンにそれは顕著に現れます。
2、シロアムへ行って洗いなさい(:6~7)
イエスが人々の病を癒される記事には、「手をあてて」、「祈られて」、「ことばによって」というものが多いですが、この箇所は非常に独特です。
イエスは、地面につばきをして、土で泥を練って、目の見えない者の目に塗られます。
* どのような思いで、盲人はその音を聞いていたでしょう。
この記事を読むときに、神が人を土で作られた、神の創造の記事を思います。土で目をお造りになられたのか…
そして、すぐに盲人の目を開けられたのではなく、土で泥をこねて、目に塗って、そして彼に言われます
「シロアムの池に行って洗いなさい。」
彼はイエスのことばの通りに行動します。ハレルヤ。
そこで、彼はシロアムの池へ行って洗うと、見えるようになります。
生まれつき目の見えない人が見えるようになる…彼は言葉に表現できない程の、私達に想像できない感動に包まれたことでしょう。
今まで光の無い暗闇の世界から、一転して、豊かな色とりどりの世界が、まばゆい光に照らされた世界が、彼の前に広がっていきます。彼の感動はどのような言葉にも、言い表すことのできないものです!
ここに、私たちはイエスの大いなる御わざと イエスのことばに従う信仰とは何か、を見ます。
3、物乞いをしていた男は見えるようになった(:8~12)
人々は見えるようになったその男を、よく知っていたはずですが誰であるのかわかりませんでした。いつもこの路上で物乞いをしていた男、小さいときから知っている者もいたかも知れません。この人はいつも座って物乞いをしていた、あの目の見えない男ではないか。そうだ、あの人だ。いや、違う、似ているだけだ… 近所の人々、彼を以前から知っている人たちに騒ぎが起こります。
彼は人々に言います。「私がそうです」
「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」
目が開かれた彼は、当然ですが、全く新しいものを見、新しい人生が彼の前に開かれていきます。
「私は、世にいる間、世の光である」と言われるイエスのことばに従い、イエスに目を開いて頂いた者は、全く新しい世界を見ます。神の国を見ます。この世界の全ては、神により造られ、神により保持されています。神の許しなしには何一つ起こらない世界。罪が満ちている世界の中に、神の輝かしい栄光を見ます。
「誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(第二コリント5:17)
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