4月14日(日)礼拝説教全文 説教者:大西一功師
「主が共におられる」 創世記39:21~23 説教者 大西一功師
序 創世記は聖書66巻の最初の書で、ヘブル語聖書の標題は「ベレシース」という言葉で、「初めに」という意味です。神の創造の業から人間の罪、神と人との関係につて、現代の私たちにも大切なことが書かれています。しかし、すべてを理解できるわけではありません。
特に注目したいのは、神の臨在、神はどのような方か、人間はどのようなものかです。創世記をよく読むと、神は創造主であり、全能者、罪や悪に対しては厳しく、赦すことができない方ですが、一方で寛容で慈愛に満ちた方であって、救いの道を備えて下さる方で、また神の愛を受ける存在として人を造られたことが窺えます。しかし、人間が神に従わず、蛇(サタン)の言葉を信じたために神に背きました。これが罪の始まりです。神は人間をエデンの園から追放され、その後の人間の罪の悲惨さが示されています。また、神と人間のあるべき関係が登場人物を通して描き出されています。ある方は、本日の聖書の個所の主人公であるヨセフを「苦しみと栄光の人」と評しています*。*石原潔著「旧約聖書概論」(2005年日本ホーリネス教団)
また創世記から現代につながる社会、文化、経済、科学技術等の源流を窺うことができます。例えば、音楽家や青銅や鉄の道具を作る人の先祖(4:21、22)、また、神はノアに洪水に際し、船の防水技術としてタールを塗るように指示しています(6:14)。
しかし、気を付けなくてはならないのは、書かれた内容の解釈です。これは聖書全体に言えることですが、人間は完全に理解することはできません。また、神を中心とした読み方をしないと間違いを犯すことです。私たちは聖霊の照明を受け、信仰を持って聖書を読む必要があります。
1.ヨセフと兄弟たち
ヨセフはヤコブの12人の息子たちの11番目の子供でした。ヤコブは年を取ってから生まれた子ヨセフを特別に可愛がりました。それは溺愛と形容してもよいほどで、ヨセフのために特別に長袖の上着を作ってやりました。兄たちは、ヨセフが兄弟のしたことを父に告げ口をしたことや特別扱いされるヨセフを憎み、穏やかに話せなかったと聖書は記しています(創世記、37:1~4)。当時ヨセフは17歳でした。そのヨセフが兄弟たちに自分の見た夢を話しました。その夢とは、畑の中で麦束を作っているとき、ヨセフの束が立ち上がり、兄弟の麦束がヨセフの束の周りに集まり、ヨセフの束を拝んだというものです。次にヨセフは日と月と11の星がヨセフにひれ伏した夢を見たと言ったのです。兄たちはヨセフを非難し、父もヨセフを叱りました。兄たちの憎しみはさらに増しました。このようなことがあって、あるとき、ヨセフの兄たちが羊の放牧に出かけ、父ヤコブが兄たちの様子を見に行くようにとヨセフを使いに出しました。ヨセフが兄たちのところへ行くと、兄たちはヨセフを捉えて殺そうとしましたが、ヨセフは殺されずに外国人の隊商に売り飛ばされ、エジプトへ奴隷として連れていかれました。エジプトでヨセフは王(ファラオ)の宮殿の役人、親衛隊長のポティファルに買い取られました。 (創世記37:12~36)
2.主がヨセフと共におられる
39章から創世記の舞台はエジプトに移ります。1~20節には、「エジプトに売られたヨセフに『主が共におられた』ので事は順調に進み、主人に信頼され、家のすべてを任せられたと書かれています。しかし、ヨセフは顔も美しく、体格もよかったので、主人の妻がヨセフに目を付け、ヨセフを誘惑しました。今で云うところのパワハラ、セクハラです。そしてついに、主人の妻は、ヨセフが自分に暴行しようとしたと偽り、主人はヨセフを王の囚人の牢に入れました。
先ほど読んでいただいた聖書で、「主はヨセフと共におられ、慈しみを示し、牢獄長の目に適うようにされた。牢獄長は、牢獄にいる囚人をすべてヨセフの手に任せ、そこでなされることはすべて、ヨセフが取りしきるようになった。牢獄長は、ヨセフの手に任せたことには何ら目を配る必要がなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は、彼のなす事が順調に運ぶようにされた。」と記しています。
創世記40~41章にかけて、牢の中でヨセフに起こったことが書かれています。二人の宮廷の役人、献酌官長と料理長が牢に入れられてきました。献酌官長とは接待係の主任のような人です。ヨセフは二人の世話を任せられました。あるとき二人は夢を見ました。ヨセフは彼らの夢を解き明かし、その通りになりました。一人はヨセフの解き明かした通りに元の職に就き,一人は処罰されて首をはねられました。そのとき、ヨセフは元の職に戻る献酌官に、「ファラオに自分が無実であると訴えて欲しい」と頼んでいましたが、牢から解放された彼は忘れていました。それから2年経った時、ファラオが夢を見ました。誰もファラオの夢を解き明かすことができませんでした。かつて牢で自分の夢を解き明かし、その通りになった役人がファラオにヨセフのことを話しました。ヨセフはファラオに呼び出されて、その夢を解き明かしました。ファラオの見た夢とは、エジプトに7年間の豊作の年が来てその後に7年間飢饉が来るというものでした。さらにヨセフはその対策をファラオに告げますと、ファラオはヨセフをファラオに次ぐ地位につけました。この時ヨセフは30歳だと聖書は書いています。やがて飢饉が来て、カナンにいる父ヤコブや兄弟をエジプトに迎えることになります。ヨセフはファラオの夢を解き明かす際、「私ではありません。神がファラオに平安を告げられるのです」と、神がヨセフの夢の解き明かしを通して平安を告げられるのだと言いました。
父の寵愛を受けていたころのヨセフに対する見方として、多くの人は自己展示欲が強く、鼻持ちならない人間という評価しています。確かに誰よりも可愛がられて特別扱いする父親に不満を抱き、兄弟たちが自分たちの悪口を父に告げ口をするヨセフに、「彼さえいなければ」と殺してしまいたいほどの憎しみに駆られたことは考えられます。しかし、ヨセフを特別扱いしたのは父親です。また、夢に関しては、ヨセフはありのままを父に告げたと考えます。真実をそのまま話すのは悪いことではありません。また、兄たちの悪い噂を父に話すことは良くないことでしょうか。家族の一員として兄弟の良くない噂を父に告げることはある意味で、しなければならないことです。もし良くないことをしているとしたら、それを改めさせるのは父です。もし一人の兄弟の悪い噂であったらどうでしょうか。多数の兄弟だから、告げ口をすると後で兄弟たちから仕返しを受けるので黙っていたら、その結果はもっと悪いことになっていたかもしれません。正しいことは正しい、悪いことは悪いとするのは正義です。また見た夢を話す人を、その夢の内容でその人の性格を判断するのは間違っています。夢を見た内容が作り話であれば、それは許されることではありません。聖書には夢の内容が記されているだけです。しかし、そのままを告げて、ほかの人がその夢を自分勝手に解釈して、怒りそして殺害するまでに憎むことはあまりにもひどいことです。ヨセフは真実を語ったのですが、それは彼を溺愛する人の感情を逆なでするものでした。偏った家族愛と罪に負けてしまう人間の弱さを感じます。しかし、ヨセフと共におられた主は、兄弟がエジプトに売り飛ばしたヨセフを通してヤコブ一族を祝福されました。神はいろいろな人を用いられ、人を祝福されます。
ヨセフはエジプトに売られ、牢に入れられるという逆境の中でも耐えることができました。ヨセフの神に対する姿勢は39:9「一体どうしてそのように大それた悪事を働き、神に罪を犯すことができましょうか。」45:8「私をここへ遣わしたのは神です。」50:19、20「心配することはありません。私が神に代わることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」と、神を第一として、神を畏れ、神を信じるところに共におられたと聖書は証しています。
3.私たちと共におられる主
ヨセフと共におられた主は、新約聖書の時代を生きる私たちにも生きて働かれる神です。私たちもヨセフと全く同じではありませんが、様々な困難や逆境に遭遇します。しかし、主が共におられるという信仰があるなら、ヨセフと同じように、神はすべてを益に変えてくださいます。それでは神はどのようにして私たちと共にいて下さるでしょうか。
招詞で聞きましたマタイ1:23に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる。」という意味である。」と書かれています。この言葉はイエス・キリストの誕生に際して、イエスの父ヨセフが夢で告げられた言葉です。ヨセフはイエスの母マリアと婚約していました。まだ結婚はしていませんでしたが聖霊によって身ごもりました。ユダヤでは未婚の女性が妊娠することは姦淫の罪を犯すことであり、石打の刑です。ヨセフはマリアのことを考えて密かに別れようかと悩みました。その時に夢で告げられたのが先ほどの言葉です。
新約聖書は、旧約聖書に預言されているイスラエルの救い主(メシヤ)が、イエス・キリストの誕生によって成就したと記しています。イエスは、弟子たちに「自分は十字架に掛かってこの世を去って行く、しかし復活する」と言われ、「自分は去って行くが、聖霊を送る」と約束し、その聖霊がイエス・キリストを主として信じた者と共にいて下さると言われました。さらにヨハネ14:20~21で「かの日には、私が父のうちにおり、あなたがたが私のうちにおり、私があなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かる・・・私もその人を愛して、その人に私自身を現す。」と言われました。さらに23節で「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」と言われております。これこそ旧約聖書でヨセフと共におられた神が新約聖書で、イエスを信じる者と共にいていてくださる主だということです。
さて、私たちはどのような時に「主が共にいてくださる」と感じるでしょうか。すべて順調で、楽しく過ごしている時でしょうか。それとも平穏な生活を送っている時でしょうか。あるいは窮地に立たされた時でしょうか。あるいは自分が罪を犯したときでしょうか。私たちが「神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」(コヘレト3:11)との言葉を思い出すとき、主が共にいて下さっていると感じる人もいるでしょう。人それぞれですが、すべての時に主は信じる者と共におられます。私たちが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16,17、18)と感じるなら、主が共にいてくださいます。
Ⅰヨハネ5:4「世に勝つ者とは誰か、イエスが神の子と信じる者ではありませんか。」ヨセフが兄弟たちによる悪事に耐え、ポティファルの妻の偽りのために牢に入れられても神を信じ続けました。ヨセフは世に勝ったのです。聖霊は、私たちに主の言葉を思い起こさせ、私たちが主と共に歩む道へと導かれます。私たちが信仰を持ち続けるとき、私たちは主と共に歩み、世に勝っているのです。
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