4月21日(日)礼拝説教全文
「神の業が現れた人」 ヨハネ9:13~34
ヨハネによる福音書に記されているイエスの第六番目の「しるし」、それは、生まれながら目が見えない人の目が開かれ、見えるようになった、というものです。奇跡と書かず「しるし」と書くのは、神の御子であるイエスが、人となられて私達の間に住まわれたその証拠、しるしというものです。(単なる奇跡ではありません)
目の見えない人が見えるようになる、それは旧約聖書で予言されている確かなメシアのしるしです。
前回の説教のテーマは、何ゆえに人に苦難があるのかということについてでした。因果応報。親の罪、自分の罪、誰かの罪が原因で、自分の身に禍がふりかかるのか?という質問でした。イエスは、「神の業が現れるためだ」と答えられました。生まれながらに目の見えない人が見えるようになりました。本日は、その後の出来事です。目を開けられた本人の証言。彼は自分の身に起こった出来事の証人となります。
今まで一度も見えなかったものが、見えるようになる。それは、まさしく神がなされる「御業」です。それは、肉体的な癒しにとどまらず、霊的な開眼を示します。心の目が開かれ、物事が明らかにされ、真理を得ることです。
本人の一度目の証言(:11~)
人々は彼に尋ねます。あなたはあの目の見えなかった人か?
彼は証言します。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら見えるようになったのです」。彼は事実だけを述べています。
二度目の証言(:15~)
ファリサイ派の人々が彼に尋ねます。どうして見えるようになったのか?
彼は証言します。「あの方(イエス)が私の目にこねた土を塗りました。そして洗うと、見えるようになったのです」。彼は事実だけを述べています。
ファリサイ派の人々は、この事実を知って意見が分かれます。「イエスは安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」「罪ある者が、このようなしるしを行うことができるだろうか」彼らも旧約聖書にメシアが来られたら、目の見えない人の目が開かれるということは知っていたのです。
三度目の証言(:17~)
ファリサイ派の人々が彼に尋ねます。「目を開けてくれた人を、あなたはどう思うか」。
彼は証言します「預言者です。」真の神から遣わされた預言者でなければ、このようなしるしを行うことができないのは明白です。
ファリサイ派の人々は、生まれながら目の見えない人の目が見えるようになったことが信じられず、その両親を呼び、調査します(:18~)。二つの質問があります。「この者はあなたがたの息子で、生まれつき目が見えなかったのか。それが、どうして目が見えるのか」
「これは私どもの息子です。生まれながら目が見えませんでした。それは事実です。」
「しかし、どうして見えるようになったのか。誰が目を開けてくれたのかは知りません」彼らは知っている事実と知らないという事実を述べます。
四度目の証言(:24~)
ファリサイ派の人々は目の見えるようになった男を呼び出し、もう一度質問します。
「神の前で正直に答えなさい。あの者は、安息日を守らない罪人ではないか」
「イエスが、あのお方が、罪人なのか、そうでないのか、私は知りません。
ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」
彼らの目の前には、生まれながらに目の見えなかった男が、目が開かれて立っている事実があるだけです。
どうして見えるようになったのかはわからない。しかし、イエスが目を開いてくれたこと。そして今は見えるということ。それがイエスによって見えるようになった人の証です。
五度目の証言(:26~27)
「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」
彼らがしつこく問いただすので、目の開かれた人は答えます。
あなたがたがイエスにどのような思いを抱いているのかは私は知らない。あなたがたが、イエスは神から遣わされた者でないと言っているのはわかります。
「あの方がどこから来られたのか、ご存じないとは、実に不思議です。…生まれながら目の見えなかった者の目を開けた人を、これまで一度も聞いたことがありません。旧約聖書の預言者でさえ成すことのできなかった業(わざ)を、旧約に預言されているメシア、神のもとから来られた者のみができることです」
あろうことか、ファリサイ派の人々は彼に憤慨して言います「お前は全く罪の中に生まれたのに(目が生まれながらに見えなかったのは罪の為であるということを言っています)、我々に教えようというのか。」
生まれつき目の見えなかった、その人が、今、目が開かれている事実はどうしようもなく、否定のしようがありません。これが、神の業が現れた人の姿であります。
イエスによって変えられた人の姿は、本人も周りも否定することはできません。
それは、神に癒された人の姿です。
それは、神に問題を解決された人の姿です。
それは、神に危機を救われた人の姿です。
それは、神に目の開かれた人の姿です。
評判の医者には、患者が集まります。
私たちの周りには、多くの困難・課題・問題があります。健康の問題 経済の問題 家族の問題…
今日、イエスは言われます。あなたに、「神の業が現れるためです」
以前、田中信夫牧師(米沢興譲教会)の集会で、何の希望も持てずに、ゴムチューブを首に巻いて自殺未遂した人がイエスを信じて救われた証しをメッセージの中で話され、その後、「その人は、この人です」と言われると舞台にその本人が出てこられました。そして、彼が賛美を独唱しました。「この人を見てください」「この人が救われた人です。」明らかに、イエスによって変えられた人の姿がそこにありました。
なんと大きく人は変えられるのだろうか。
弱い者に「自分は強い」と言わせ、貧しい者に「自分は富んでいる」と言わせ、見えない者に見える目を与え、
罪深い者に「赦し」を与え、絶望のどん底にある者に「希望」を与え、迷いの中にある者に「確信」を与える。
それが主イエスのなされる御業です。
皆さん、知ってください。どんな反対者も、キリストに関心のない者も、「変えられたキリスト者・証人」の前には、何の反論もできません。我が身に起こった「神の御業」、それが私たちの証しです。
「神が、イエスが、わたしの人生にこんなに素晴らしい御業を行って下さいました!」
これが、キリストの証人の原動力、キリスト者の力です。
「しかし、ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったのに、今は見えるということです!」
私達も、今日も聖霊によって、目をはっきりと見えるようにしていただいて、力強く宣言していきましょう。
イエスによって救われた者、目の開かれた者は、生まれながら見ていた景色とは全く別のものが見えるようになりました。それは、神の臨在、神の守り、神の愛、神の義、そして神の国、神の支配が与えられていることです。
あなたは何を見ていますか。イエスはあなたの目を開かれました。シロアムに行って洗いなさい。目を塞いでいる泥を落としなさい。全てのキリスト者の目は開かれています。しかし、それがはっきりと見えるようになりますように。
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