4月28日(日)礼拝説教全文

「信仰の決断への招き」  ヨハネ9:35~41

ヨハネによる福音書に7つあるしるしの中の第6の「しるし」。それは単なる奇跡ではなく、イエスが神の御子であり、人となられて私達の間を歩まれた神の御子としての「しるし」です、と礼拝の中でお伝えして読み進んでいます。又、ヨハネによる福音書を礼拝で読み始めました時に、「いまだ神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。目に見える人となられたイエスを見ること、知ることは、目に見えない神を見ること、知ることであるとお話ししました。

(生まれながら)目の見えない人の目が開かれ、見えるようになる。これは旧約聖書に預言されている顕著なメシアとしてのしるしであり、メシアはすべての人の目を開かれるお方です。

9章の締めくくり

イエスは、「この人が生まれつき目が見えない苦しみの中にあるのは、この人の罪や、両親や、誰かの罪が原因ではない、神の業が現れるためだ」と言われました。そして、彼の見えない目を見えるようにされました。

彼は人々の前で、自分の身に起こったことを証ししました。「イエスが私の目を開けてくださいました。」

本日は、生まれながらに目の見えない男の目が見えるようになったエピソードの最後の箇所となります。彼は会堂から追い出されます。イエスを擁護し、会堂を管理していたファリサイ派の人々に反対するような言葉を言ったからです。

そして、ついに彼は、彼の目を開けてくださったお方、イエスに出会います(:35~)。

イエスは彼をそのままにしておかず、しっかりと「信仰」へと導かれます。癒されたことも大事ですが、大事なのは、これからの彼とイエスとのつながりです。

イエスは彼に言われます「あなたは人の子を信じるか。」 

人の子とは、旧約聖書(ダニエル書7:13)に預言されている神から遣わされたキリスト、メシア、救い主のことです。メシア(救い主)であると信じるか、と問われるのです。彼はイエスが指し示される「人の子」が誰であるかを知りません。

イエスは「わたしがそうだ。」と言われます。

「主よ、信じます」(:38)と彼は応答し、イエスを拝しました。

イエスは彼に再び会い、どうして彼に「私がメシアであると信じるか」と問われたのでしょうか。私を、あなたを、救ってくださる者は誰でしょうか。死から救ってくださるのは誰でしょうか。死は将来、私たちに確実にある出来事です。聖書は、死は、人の罪に対しての神の裁きであると伝えています。また、死んで後の裁き、罪あるままでは第二の死、滅びがあることを伝えています。「死」は私たちの現実として理解できることではありますが、死の原因や、その救いの道、死んだ後の滅びについては、聖書が伝えるところです。しかし、人は死でさえも自分の身にふりかかってくる出来事として深刻には認識していないことが多いのです。

イエスを信じるとは、イエスが私を罪と死と滅びの現実から救ってくださるメシアであると信じることであり、私とイエス、救われる者と救うお方との関係が自分の人生に構築されることを示します。

信じる者と、信じない者がいます。

「どちらでもない」とは、私たちは答えることができません。聖書はいつも、どちらかの決断を私たちに迫ります。あなたは、イエスを生ける神の御子、キリスト(罪、死、滅びから救う救い主)と信じますか?そしてその問いは、聖書を読む全ての者が、イエスの十字架と復活の福音を聞く全ての者が応答すべき最も重要な問いであります。

健康な人は医者へ行きません。病気を自覚しない者は医者へは行きません。行くのは病人であり、病気を自覚した者です。目が見えていると思っている人は、目を開いて欲しいとは望みません。目の見えない者には、目を開かれるイエスが必要です。

自分に罪がないと思う人はイエスのもとへは行きません。イエスのもとに行くのは罪人です。罪人と自覚する者です。なぜなら、イエスは罪を赦し、聖めるただひとりの医者だからです。

罪を自覚する者とは、自分は盲目、目の見えない者であることを聖霊によって自覚します。

自分には罪がない、自分は見えている、と言う者は既に裁かれています。イエスに逆らって、神に逆らって滅びに向かっている自覚がないからです。

「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(:39)

イエスは裁きをなされる審判者です。この地を、全てのものを統治し、裁かれます。イエスがこの地に来られたのは、私たちの罪の贖いの為に十字架に死んでくださり、私たちに復活の命を与える為に三日目によみがえられました。あなたはこの福音を信じますか?このイエスを信じるか、信じないかが、私たちに対する新たな裁きの基準になり、救いの唯一の道となります。ゆえに、神の御子イエスが来られてからの新しい時代は、イエスが滅びと救いの審判者、主なのです。

目の見えない者(異邦人、罪人、遊女、収税人)が見えるようになり、目の見える者(パリサイ人、律法学者、祭司)が盲目となるという、イエスを信じるか、それとも、拒絶するかによって、大きな逆転状況が起こります。

それは、イエスの前に、罪があると自覚する者が赦しを受け、自分を正しいと主張する者が裁きを受けるのです。

自分は神無しでは、死んだ者と同様であることを自覚する者は幸いです。神なしで、生きていけると思う者はわざわいです。これが聖書が私たちに伝えるメッセージです。

今日イエスはあなたに問われます。「あなたは人の子を信じますか。」

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000