5月5日(日)礼拝説教全文
「救いの門 良い羊飼い」 ヨハネ10:1~21
「私は〇〇である」「エゴー・エイミ」(イエスの自己紹介、自己宣言)
出エジプト記3:14 神の名の自己宣言の箇所
「エゴー・エイミ」、それは神の自己宣言、ご自身について誓って言われる最も力強い表現の言葉です。
歴史の中には 道を語り、道を示す多くの宗教家、哲学者、指導者達もいました。しかしイエスはご自身を指して宣言されています。「私に従いなさい」と。
イエスは「エゴー・エイミ」という言葉と、何かを組み合わせて自己宣言をされています。イエスが救い主(メシア)であり神の御子であることを人々に示すために使われています。ヨハネの福音書の中に7つあります。、
「私は命のパンです」(6:35、41、48、 51)、「わたしは世の光です」(8:12)「私は(羊の)門です」(10:7、9)、「私は良い羊飼いです」(10:11、14)、「私はよみがえりです、命です」(11:25)、「私は道であり、真理であり、命なのです」(14:6)、「私はまことのぶどうの木です」(15:1、5)。
イエスは「門」、「良い羊飼い」
1節~5節は、聖書教会共同訳聖書では「『羊の囲い』のたとえ」という見出しがついています。イエスが話されたたとえを聞いてもファリサイ派の人々は意味がわからなかったとあります。
イエスは彼らに何を話されたのでしょうか。
羊飼いと、羊飼いではない盗人・強盗について語られました。
羊飼いは門から入るが、盗人・強盗は門以外の所を乗り越えて入って来る。
羊は羊飼いの声は知っているが、羊飼いでない者の声には付いて行かず逃げ出す、と言われます。
そして7節以降で、「私が羊の門である」「私は門である」と言われます。
そして、「私を通って入る者は救われる」と言われます。
ファリサイ派の人たちはユダヤ人の宗教的指導者であり、牧者であるはずです。イスラエルの人々を導く責任を負っています。しかし、彼らはイエスを拒絶して、イエスという門から入らない盗人であり強盗であり、羊を滅ぼす者となることがイエスのたとえで示唆されてています。彼らは自分たちに向けて語られている言葉であることを理解できませんでした。その後、19節で、自分たちが非難されたことを知り、「あれは悪霊につかれている」とイエスを罵っています。しかし、9章でなされた「盲人の目を開けた」事実は否定することができませんでした。
1、私は門である(:9)
羊の門とは何でしょう(:7)。 ネヘミヤ3:1に「羊の門」は城壁の再建時、最初に手がけられた工事箇所と記されています。イスラエルを守る城壁の第一の門です。イスラエルの民を守る城壁の門です。
門とは何でしょう(:8)。門は、唯一、高い城壁の中に入ることのできる入り口です。エルサレムに入る為には門から入らなければなりません。門には警備兵が立って外敵から守ります。門の中は安心して住むことができる場所です。
イエスは言われます「私を通って入る者は救われ、また出入りして牧草を見つけます。」
「門」が閉ざされていて入れず、そこにいつまでも立ち尽くさなければならないとしたら、どうでしょうか。しかしイエスが門であるその門はいつも開いています。イエスの言葉を通して私たちが知ることは、その門は、救いの門であり、安住の(平安を得る)門であり、養いを得る門であるということです。
「入門する」という言葉がありますが、イエスという門から入るということは、イエスに従い、イエスに学び、イエスの弟子となるということです。信仰とは、まさに、牧者であるイエスの声に聞き従うことです。羊は、羊飼いの声を聞き分け(:16)、羊は羊飼いを知っている(:14)、羊は羊飼いの声に聞き従う(:16)とあります。
律法を守って救いを得るのではありません。イエスを信じ、羊飼いであるイエスの声に従い、学ぶことによって、律法が成就されます。羊飼いが先頭に立って、羊の名を呼んで導かれます。この羊飼いは、羊の名を呼ばれます。
この世の声に惑わされず、この門から入る者は救われます。
この門から入って行くときに、私たちは豊かな命にあずかります。世界にいろいろな門があるかも知れません。しかし、救いに至る門はただひとつです。
2、私は良い羊飼いである(:11)
もうひとつの「エゴー・エイミ」は、「私は良い羊飼いである」と言われるイエスの自己宣言です。
ここにも、良い羊飼いと、自分の羊でない雇人の羊飼いの対比があります。
羊飼いの仕事は、羊を導き、守り、養うことです。
そしてこの良い羊飼いの最大の特徴は、「羊のために命を捨てる」ということです。羊が命を得る為に、しかも豊かに得る為に、命を捨てる羊飼いです。「命を捨てる」という言葉は、11節、15節、17節。そして18節では、「誰かから自分の命を取られるのではない。自分でそれを捨てる」と言われています。
羊が命を得る為に、自らの命を捨てる羊飼い、それがイエスです。
当時のイスラエルにおいて羊がいかに貴重であっても、羊ごときの為に、命を捨てる羊飼いがいたでしょうか。とても考えられないことです。
しかし、この良い羊飼いと羊の話はたとえです。
羊飼いであるイエスは、羊である私たちが命を得るために、ご自身の命を自ら進んで、言葉だけでなく、事実、私たちの罪の贖いとして十字架の上で命を捨てられたのです。そのイエスのおこころの内はいかなるものでしょうか。「ひとりも滅びないで永遠の命を持つためです」。それほどに、私たちを愛し、大事に思っていて下さるのです。
羊の為にご自身の命を捨てる羊飼い。こんな愚かな行為はありません。しかし、この最大の神の愚かさとも思える愛が、私たちを救うのです。
最後に16節には、私たちのことをイエスが言われています。「この囲いに入っていないほかの羊がいる。その羊も導かなければならない。その羊(それは異邦人である私たちですが)も私の声を聞き分ける。こうして、一つの群れ、一人の羊飼いとなる」
今日も、羊の為に命を捨ててくださった牧者イエスの前に告白しましょう。
「私はあなたの声を聞き分けます。どうかイエスよ、聖書のことばによって、私に声をかけて導いて下さい。私はただあなたの声だけに従っていきます。」と。
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