5月26日(日)礼拝説教全文
「神の国は言葉ではなく力」 ヨハネ10:22~42
-神の国は言葉ではなく、力にあるのです- (第一コリント4:20)
イエスは何者であり、その真実を何が証明するのか。
ひとりの人の人生・生涯、歩みをどのように評価するのか。
その人の生涯の評価は、その人が何を語り、何を行ったのか、それらによってその人の人生評価が決まります。 《ことばとわざ(行い)》《信仰と行い》
生まれながら目の見えない男の目を開かれて、暗闇に光を与えられたイエスのみわざ(9章 第6のしるし)。
イエスの弟子たちが、「この人が生まれながら目が見えないのは、誰が罪を犯したことの報いですか。この人ですか。その両親ですか」という問いに対して、
イエスは「この人でも、その両親でもない。神のみわざがこの人にあらわれる為である」と言われました。(9:1~3)
そして、イエスの生涯における最後の(7番目の)しるし、11章のラザロが生き返る出来事に進もうとしています。
死んで墓に葬られて3日も経った人に命を与えられるイエス。
イエスはことばとみわざをもって、ご自身が「生ける神の御子救い主」であることを示し、その生涯を歩まれました。ヨハネによる福音書は最初からそうです。
ご自身を「神の子」と宣言されるイエスに対して、当時の宗教的指導者たちは「彼は自分を神に等しい者としている。神を冒涜している」と言って、イエスを石打ちにしようとしました(:31)。また、何度も捕らえようともしました(:39)。
イエスを信じない人に向かってイエスは言われます。
「あなたがたが、わたしを、わたしの言うことばを信じられないのなら、わたしのわざを信じなさい。」―― 本日のメッセージのテーマと深く関係しています。どのように本物・真実を見分けることができるのか。「わたしのわざを信じなさい」という言葉です。
「神が共におられるのでなければ、このようなわざを行うことはできない」(3:2)、とニコデモスはイエスに向かって告白しました。
イエスはこの時、バプテスマのヨハネが洗礼を授けた場所(人里離れた荒野)に滞在されていました。ここにもイエスの周りに多くの群衆が集まっていました。そして、多くの人々がイエスについて、イエスを指差して言いました。「ヨハネは何一つしるしを行わなかったが、彼(バプテスマのヨハネ)がこの方について話したことはみな真実であった。」
このように、この地方の多くの人がイエスを信じたとあります。「バプテスマのヨハネの証言は本当だった」と認めたからです。それはイエスが力ある業を次から次へと行っておられたからです。
エルサレムでは、頑なに口伝律法でイエスを判断しようとしたユダヤ人たちはイエスを拒絶しましたが、
ガリラヤに住むユダヤ人は、信仰をもって、イエスを受け入れ信じました。
ここにも、イエスを信じる人と、信じない人に分かれています。
イエスが「生ける神の御子キリスト」であると信じた人と、信じなかった人とに。
「あなたは私を信じるか」とイエスはいつも私たちに問われます。私たちは応答しなければなりません。
福音が語られるところでは、いつも、信じる者と、そうでない者とに分かれます。
救いの門はいつも開いています。あなたが「信じる」「入る」用意は整っています。
「ことばで信じられないのなら、わざを見て信じなさい。」それがイエスの今日の言葉です。
それは、イエスに従う信仰者に対しても言えることだと思います。
神のみわざは今どこにあらわされるのか。
繰り返して礼拝の説教の中で語ってきましたが、信じる人々の上に起こされます。
神を信じるあなたの人生に、神はどのようなみわざを行って下さっているでしょうか。
キリストの十字架はいつも2つの方向を私たちに示しています。
神と私(神から私へ) 神が私に与えて下さる神のわざ 私と隣人(私から隣人へ) 神が私を通して隣人に与えて下さる神のわざ
① 神様と私の間に成される神のみわざ
誰かを祝福して下さいではなく、私を祝福して下さい、と祈りましょう。
私の願いではなく、私は自分の願いを全てあなたにお渡ししますから(これが重要)*一杯の水を一生懸命抱えて、大きな泉をいただくことを妨げている。神様が私を祝福しようとしておられる祝福の全てを下さい。神様、あなたは私にどのような祝福を用意していて下さいますか。あなたにそれを求めます。
* ヤベツの祈り
祈りは聞かれる。祈りは応えられる・・・神と私とのパイプを太くしましょう。 ライフライン(命の綱)は祈りです。
神が祈りに応えてくださったという経験を数多く人生で積み上げていきましょう。それがあなたへの神
のわざ、生きた証です。
あなたが実を結ぶことで、神が栄光をお受けになります。 ヨハネ15:8
最もすばらしいキリスト者のわざは何か = それは祈りです (*修道院について、最初否定的でありましたが・・・。) どのように衰え、私の行為の全てがそぎ落とされても、私たちには最も尊いできることが残されている。手を合わせて神に祈ることではないでしょうか。これは一番簡単で、一番できないことです。(参照 詩「最良のわざ」)
② 私と隣人(特に兄弟姉妹)の間に成される神のみわざ
あなたに結ばれた御霊の実が、隣人にとって多くの祝福となります。
人々がキリスト教に惹かれる多くの場合は、クリスチャンの生き方によってです。
キリスト教の魅力は、キリストによって救われた人の新しい生き方です。
先週はペンテコステ記念礼拝で、教会の創立の出来事をお話ししましたが、聖書にその後に最初のエルサレム教会の麗しい働きとその教会の様子が語られています。その使徒言行録で最初の教会の様子が書かれている内容は、クリスチャンの集まりは、それ以外の人々からも好意を持たれ、尊敬されていた、とあります。そこに注目したいと思います。
その中心は、兄弟愛です。
互いに助け合い、祈り合い、支え合う。「主が私達の為に命を捨てて下さいました。私達はそれによって愛ということを知りました。だから、あなたがたも兄弟の為に命を捨てるべきである」(第一ヨハネ3:16)。
《ことばと行い(わざ)》
イエスの生涯(神と共に歩む人生)には、どのようなことばとみわざがあったでしょうか。
キリスト者には、どのようなことばとわざがあるのでしょうか。
第一コリント4:20
「神の国は言葉ではなく、力にあるのです」
本物かどうかは、その実が証明します。
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