6月2日(日)礼拝説教全文
「ホーリネス(聖潔)の恵み」 ガラテヤ2:19~20
* 時々私は、自分がいなくなって、代わりにイエス様が私を生きてくださったなら、どんなに私の生きている意味は大きなものとなるだろうかと考えることがあります。愚かな祈りだとも思いますが、「どうかイエス様、私と代わって下さい」と祈ることがあります。
日本ホーリネス教団の掲げているホーリネスとは何でしょうか。「ホーリー」という語から派生して、潔め、聖潔、聖別、聖化と訳すことができます。
それは、神によってきよめていただく経験です。新生、聖化、神癒、再臨がホーリネス教団の教理・特色である「四重の福音」と呼ばれる中の二番目の「聖化」です。生まれることも大事です。生まれなければ始まりませんから。しかし、「どう生きるか」はさらに大事なことです。
救いによって罪は、神の赦しを受けていますが、相変わらず汚れた、自己中心の自分がいます。そのような私がきよめられていって、自分のものから、神のものへとされていく自由! それが潔めの恵みです。
私たちキリスト者の究極・最大の目標は、私の内に「キリスト」が形作られていき、キリストに似た者へと変えられることです。
個人宗教の確立 あなたと神の関係(個人的な経験から)
神様は聖なるお方です。神様の聖とは、神様の聖に触れると、触れた者も聖なる者へと変えられていく聖です。それは、私個人に対する神の恵みの経験として始まります。
イエスと深く、長く交わるとどうなるか。主のようになる、変えられる、考え方も生き方も変わります。
神の恵み、祝福、賜物に対して―― まず個人的に(個人にとどまるものではありませんが)経験することです。「救いの経験」も個人的なものから始まりますが、「聖めの経験」もそうです。結果的に、個人から隣人へ拡がる恵みがあります。
日々の生活の中で、神様の恵み・聖さをいただくこと。それは、神を体験することです。
日常生活の中で、礼拝で、日々の御言と祈りの生活の中にあります。
「あの時、私は、この様な神様のお取り扱いの経験をいただきました。」という神と私の関係を深く築きます。
日本ホーリネス教団では、「きよめ(聖潔)の経験」を受けること、それは信仰生活の柱です。
様々な角度から、きよめの経験について聖書の御言を読むことができますが、このガラテヤ2:19~20のパウロの個人的(一人称 「私は」で語られる)経験は、日本ホーリネス教団の「きよめの経験」を語る上で、最も多く開かれ、力強く語れてきた箇所の一つであります。
多くのキリスト者たちは、聖書のみことばを信じ、受け取り、体験してきました。
潔めの経験は。みことば経験です。そのみことばが私に実現することを信じるところから始まります。救いの経験とそういう意味では同じです。みことばが自分の生活や理解とかけ離れていたとしても、神は私をみことばの通りにしてくださると、神に信頼してアーメンと告白するのです。
1、 きよめとは何か
「一度もきよめについてのメッセージを聞いたことがない」と言う人がいます。実は、きよめのメッセージは違った言葉で何度も語られているものです。きよめの経験は、聖霊のバプテスマ、第二の転機、キリスト者の完全、全き愛、十字架での磔殺、内住のキリスト、等、様々な言い方がされます。どれも分かりにくい表現ですが、一言で説明すると何であるのか。私の神から、神のものである私 へ移行される経験です。最初は誰もが、私の為の神様(ご利益的)からスタートします。そしてそれは、聖霊が力強く働いて、私をそのような者へと造り変えて下さる聖霊による経験です。ご利益は大事ですが、自分の為よりむしろ、神の役に立つ器に造り変えられる経験であります。
きよめ=カドーシ 聖別された器 神の働きにのみ使われる器
神のものとして区別され、分けはなたれる という意味があります。
本日のパウロの言葉・・・「生きているのは、もはや私ではない!キリストが私のうちに生きておられるのである。」(:20)私は私のものではなく、すでにキリストのものである。私の内をキリストが御支配して下さっている。これがパウロが神様からいただいた キリスト経験です。
自らをキリストに服従させている姿(努力でなく、嫌々でなく、聖霊によって喜んでいる姿)は、私ではなく、キリストが私の人生を生きて下さっておられて、私はキリストのものであるという告白です。
きよめの経験と 救いの経験の違い
きよめの経験がないと救われないでしょうか。いいえ、きよめの経験がなくても救われます。救いの条件は「信仰のみ」だからです。付け足すものはひとつもありません。イエスの十字架と復活のいさおし(功績)によって十分です。
ではなぜ、清めの経験が必要なのでしょうか。
きよめられなくてキリスト者としての力強い歩みはできません。きよめは私たちがキリストの証人として歩むための力です。イエスを信じていても、聖霊の満たしなしに、クリスチャンとして(人間としてでなく)力強く生きることはできません。
・・・聖書学院で、「きよめの経験をいただいて卒業して下さい。献身者としてきよめの経験なしにホーリネス牧師として進む事は困難です。」 私が入学した時の、江副教団委員長の言葉です。
2、十字架につけられなければならない私(:19) 19と20は表と裏を表わしていると言えます。「死んで生きる」
神に生きるためには、己に死ななければなりません。自我の磔殺(自分を捨て、自分の十字架を負う)
小林和夫師の著書「二つの十字架」― 身代わりの十字架 共につけられた十字架
共につけられた十字架はさらに深い十字架経験であり、尚深く、深く十字架の恵みを経験していくものです。
十字架にはじまり、十字架に終る。キリストの血潮が私をきよめるのです。
どうやったら自分に死ねるのか。死ぬにしても間違った死に方をしてはなりません。
自分の欲や、夢や、希望や、何かが、様々なものがなくなったり、あきらめたりすることではありません。自分の性格や、自分に合わない事に合わせていくのでもありません。己を肉の思いや、努力や、修行や、精神力や、知識や、理性によって抑制させて、殺すのではありません。(律法により律法に死んだ)
自我の磔殺は、十字架の上でのみ成されます。十字架でキリストと共に死ぬのが その死に方です。
確かに死ぬ事は痛みを伴うことです。しかし、喜びにまさる苦痛であるとするなら、それは間違った死に方です。苦痛にまさる喜び それが十字架で死ぬことです。それは、苦しみを受けられた十字架の上の主の様になることです。キリストの十字架の愛のうちに死ぬのが正しい死に方です。
「自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従いなさい」(マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23)。 自分を捨て、自分の十字架を負うのは何のためですか? 神に生きるためであります。
「自分・自分が・・・」を主張しているうちは わたしは神のもの キリストのものであるという生活はほど遠い。
皆さん知ってください。十字架には、私が自分が、という自己中心の生活から、他者の為に、神の為に、キリストの為に(神とキリストの栄光が表わされる為に)という真の自由への、解放の道が開かれているのです。
イエス・キリストは、まさに神の為に生き、人々(私達)の為に生きられたお方であります。
真の自由とは、神の喜ばれる道を選択できるという自由。自分の望み・欲からの解放。この世の価値観からの解放。自己実現から神実現への解放です。 ガラテヤ2:19~20
その道は、繰り返しますが、私の祝福であり、隣人への祝福となります。
0コメント