6月9日(日)礼拝説教全文 説教者:曽根岡フサ子勧士

2024年6月9日礼拝説教               説教者:曽根岡フサ子勧士

「友よ、しようとすることをするがよい」 

聖書箇所:マタイによる福音書26章27節―56節

みなさま、おはようございます。例年、12月に来ることが多かったのですが、今回は、都合により6月に来させていただきました。また、みなさんと、6か月振りにともに主を礼拝し、お交わりができますことをこころより嬉しく思っております。

今司会者がお読みくださったマタイによる福音書26章27節から56節までの聖書箇所には、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダや、無実の人を、ねたみから捕らえ殺そうとするパリサイ人や律法学者、群衆、また、師の危機に師を見捨てて逃げてしまう弟子たちの姿が登場します。イスカリオテのユダがどうしてイエス様を裏切ったのか、その理由については、様々な意見があります。ここでは、その動機のひとつとして、イスカリオテのユダの金銭欲について述べるにとどめ、今回は、その理由を詳しく探るよりも、ご自分を裏切る者に対してさえも注がれるイエス様の愛、またイエス様が、愚かな罪人である私たち一人一人をどんなに愛してくださっているかという事に焦点を当ててみたいと思います。

当時のユダヤには、上流階級であり知識階級であった祭司長、パリサイ人、律法学者と言った人々がおりました。ユダヤ人には、昔彼らが奴隷となっていたエジプトから脱出する際の指導者であったモーセに神がお与えになった律法がありました。イエス様は、指導者であったパリサイ人や祭司長や律法学者と言った人々をご覧になり、彼らが、その律法を一見守っているようでも、その心は遠く離れていて、律法の中ではるかに重要な正義、あわれみ、誠実をおろそかにしていること、また、外見は人から良く見られていても、その内側は、偽善と不法でいっぱいであること、また、人々に重い荷を背負わせ、人の肩に載せても、自分自身は指一本も触ろうとしない彼らを、また、心から人を愛してではなく、人に見せるために長いお祈りをしたり、宴会の上座や会堂の上席が大好きだったり、人々が天の御国に入ることを遮り、自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせないようにしている彼らの行いを非常に厳しく非難しておられました。マタイによる福音書23章には、そのことが詳しく書かれています。「パリサイ人や律法学者の言うことは、すべて行い、守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。 言うだけで、実行しないからである。」(マタイ23:2-4)とイエス様は語っておられます。

言うだけで実行しないパリサイ人や律法学者たちと違って、イエス様は、前回お話ししたように、世の中で、見下されている人、取るに足りない者に目を向けて、愛を行っておられました。そんなイエス様は民衆に非常に人気がありました。しかし、自分たちを非難しているイエス様に対する怒りと共に、ねたみにかられたパリサイ人や律法学者たちは、なんとか計略を用いてイエス様を捕らえて殺そうと考えていました。(マルコ14:1)

そんな折に、イエス様の12使徒の一人であったイスカリオテのユダが、祭司長やパリサイ人のもとに行き、「あの男を引き渡せば、いくらくれますか」と相談を持ち掛けたのです。パリサイ人達は、これを聞いて、渡りに船とばかりに大喜びし、銀貨30枚を支払うことにしました。

ユダは、イエス様を引き渡す良い機会を狙っていました。(マタイ26:14-16)

イスカリオテのユダが、イエス様のお体の代償として受け取る銀貨30枚は、当時どれぐらいの価値があったと思いますか。出エジプト記21章32節によると、牛に突かれた奴隷の代価として銀30シェケルを払うことが記載されていますので、時代による貨幣価値の変化を考慮しても、祭司長や律法学者たちが見積もったイエス様のお体の価値は、奴隷の価値と同じだったと言われています。

また、使徒についてですが、使徒というのは、イエス様と共に、3年の間寝食を共にし、イエス様から直接教えを受け、選ばれた12人の弟子たちのことをいいます。イエス様は、これらの使徒たちに神様・イエス様の教えを宣べ伝えさせ、又悪霊を追い出す権能を与えておられました(マルコ13:14-15)ので、特別な弟子たちだったことが分かります。

イスカリオテのユダも、12使徒の一人として、当然この権能を与えられていた人でした。そんなユダがどうして、イエス様を裏切るようなことをしてしまったのでしょうか。しかも誰かに強制されて、イエス様を売ったわけではなく、自ら進んで、祭司長達に売り込むようなことをしたのです。その動機としては、様々な理由が挙げられていますが、その一つとして、「あの男をあなたたちに引き渡せばいくらくれますか」(マタイ26:15)と言ったユダの言葉から推測すると、金銭欲があったのではないかと思われています。また、ユダは、弟子の中で会計係として金入れを任されていたそうですが、その中身をごまかして盗んでいたとも言われて(ヨハネ12:6)、この行為も、ユダの金銭欲の一面を現わしているように思います。

「金銭の欲は、全ての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、様々のひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(第一テモテ6章10節)金銭を追い求める生活をすることは、ひどい苦しみに遭うと戒めています。今話題のドジャースの大谷翔平選手の通訳だった水原一平氏が、ギャンブル依存症のために、280億ドルもの負債を負い、大谷選手の口座から24億円ものお金を無断で引き出して、日本でもアメリカでも大きく報じられました。ギャンブルをする動機は、ギャンブルそのものの面白さもあるのかもしれませんが、やはり、その根底に、一つ儲けてやろうという金銭欲があるのではないかと思います。こうして一人の人の金銭を愛する生活が、家族や関係者をも巻き込んで、本人だけでなく、周囲の人達にも多大な苦しみや悲しみを与えることは、み言葉に書かれている通りだと思います。

ところで、イエス様が、過越しの祭りというユダヤ人が最も大切にする祭の夕食を弟子たちと共に食べておられた時のことでした。余談ですが、この時の食事は、イエス様が、十字架に掛かられる前の最後の食事だったので、最後の晩餐と言われ、レオナルド∙ダヴィンチによって描かれたその絵は、美術史に残る名作の一つに数えられています。最後の晩餐の席上で、イエス様は、「はっきり言っておく。あなた方の一人が私を裏切ろうとしている」(マタイ26:21)と告げられました。弟子たちは、それを聞くと非常に心を痛めて、代るがわる「主よ、まさか私のことでは」と言い始めたとあります。イエス様は、「私がパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言われて、そのパン切れをイスカリオテのユダにお渡しになりました。「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハネ13;27)とあるように、ユダは、サタンの思うままになって、すぐに、祭司長達に告げるために夜の暗闇へと出かけて行きました。(ヨハネ13:30)

食事の後、イエス様は、ゲッセマネという所で、血の汗を流しながら祈った後、弟子たちに話をしておられました。そこへ、冒頭にもお話ししたように、祭司長や民の長老たちに遣わされた大勢の下役の人々が、こん棒や剣をもって、イエス様を捕えようとしてやって来たのです。 その人々を手引きしたのが、イスカリオテのユダでした。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するその人がイエスだ。それを捕まえろ。」と前もって合図を約束していたので、イエス様に近寄り「先生、こんばんは」と言って接吻しました。こうして、イスカリオテのユダは、心からの尊敬や親しみからではなく、欺くための偽りの接吻によって、イエス様を裏切ったのです。

皆さんだったら、ユダのこのような態度をどのように思いますか。みなさんの人生の中で、人に裏切られた経験はありますか。怒り、くやしさ、悲しさ、復讐と言ったもろもろの感情にゆさぶられた経験はないでしょうか。イエス様は、近づいて来たイスカリオテのユダが、心にもない接吻をして自分を裏切ることを前もって百もご存じでした。イエス様は、そんなユダに、 怒りや非難の言葉ではなく、「友よ」(マタイ26;50)と呼びかけられたのです。このたった一言の言葉の中に、自分を裏切る人を友と呼ぶイエス様の赦し、寛容、慈愛が感じられるのではないでしょうか。こん棒や剣をもって自分を捕らえようとしてやって来た人々の殺気立った行動や態度とは対照的に、こんな状況の中にあってさえも、台風の中の目のようにイエス様の態度のなんと穏やかで、冷静で愛に満ちていることでしょう。私は、今回の説教を準備する上で、イエス様のこのような態度に深く感動して、今日の説教の題とさせていただきました。イエス様は、「私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)と述べ、このみ言葉の通りに、自分を裏切るユダをも愛してくださっています。

ところで、イエス様は、「友よ」とイスカリオテのユダに話しかけられた後に「しようとすることをするがよい」ともう一つのお言葉を語っています。「しようとすること」それは、先にも言いましたように、最後の晩餐の後、イスカリオテのユダが、イエス様を、祭司長やパリサイ人に銀貨30枚で裏切り、引き渡すことでした。そのためにユダは、外の暗闇へと出かけて行ったのです。イエス様は、もちろんイスカリオテのユダが何をしに行くかをご存じでした。捕らえられたイエス様は、その後、いばらの冠をかぶせられ、鞭で打たれ、あざけられ、つばをかけられたりして、ありとあらゆる侮辱を受け、最も重いとされる十字架の刑に処せられました。十字架上で、最も苦しい目に合っている最中にも、イエス様は、自分をあざけり、侮辱する行為を続ける人々のために、「父よ。彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と、神様が彼らの行為を赦してくださるように、とりなしの祈りをしてくださっています。

しかし、ここで、注意しなければならないのは、イエス様が、祭司長やパリサイ人などイエス様を憎む者たちによって、十字架につけられたようにみえるかもしれませんが、実は、イエス様が、自ら進んで、十字架にかかってくださったということです。それは、イエス様が、天から下って来たのは,イエス様を遣わされた御方のみこころを行うためにこの世に来られたからです(ヨハネ6:38)。イエス様は、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私の命じることを行うならば、あなたがたは、私の友である。もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。 私は、あなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15:13-15)と語っておられます。イエス様は、自分を裏切ったイスカリオテのユダを友と呼んでくださっただけでなく、罪びとである私たち一人一人のことも友と呼んでくださっています。イエス様は、友のために自分の命を捨てることを、単なる口先の言葉だけでなく、実際に行ってくださいました。ご自分は罪が無いのに、わたしたち一人ひとりの罪を背負ってそれを自分のお体と引き換えに、私たちの罪を帳消しにする贖いのために、十字架にかかってくださったのです。

しかもそれだけではありません。イエス様は、「私を遣わした方のみこころは、私に与えてくださったすべての者を、私が一人も失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実,私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠のいのちを持つことです。私は、その人たちを一人一人終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6:39、40)と語ってくださっています。主が、十字架にかかられたとき、サタンは、「やった~、やった~」と勝利の歓声をあげ、大喜びしたことでしょう。又主イエス様を慕う人々は、愛し尊敬してやまない師を失って悲嘆の涙にくれたことと思います。けれども、イエス様が3日目によみがえってくださったことによって、彼らの涙は、喜びの涙へと変えられてゆきました。イエス様は、サタンに勝利してくださり、私達を死のとげから解放してくださったのです。それだけでなく、永遠の命をも与えてくださったのです。

永遠のいのちとはなんでしょう。ヨハネによる福音書17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス∙キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあります。 私たちを創造してくださった唯一のまことの神様を知り、イエス様を知り、その御心を知って、それにお従いすることを意味します。肉体は滅びても、神様、イエス様との交わりの中で、永遠に生きることを意味しています。イエス様は、私たちの罪を贖い、永遠のいのちを与えるという神様の救いのご計画をなし遂げるために、十字架の苦しみに至るまで、全き従順をもって、神様のみこころに従ってくださいました。このような友がいるでしょうか。

わたしは、今からちょうど50年前の29才のときに、夫の転勤で5歳、3歳、生後3か月の幼い子供3人を連れて、アメリカに渡りました。アメリカと言えば映画の世界でしか知らなかった位、全く未知の世界でした。窓から見えるアメリカ人が忙しそうに行き来するのを眺めては、自分が、この世界には属さない異邦人であることを、痛いほどに感じさせられる毎日でした。このような日々の中で、支えとなったのは、アメリカに来る1年半前に受けた信仰でした。どんなにそのことを感謝したか知れません。主が、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって、イスラエルの人々を荒野で導いてくださったように、私に対してもそのように導き守ってくださいました。この50年間様々な出来事がありましたが、その折々に主は共にいてくださり、その主の恵みに対し、いくら感謝してもし尽くせない感謝の気持ちで一杯です。

今日ここに集われていらっしゃる方の中で、このイエス様を友に持ちたい、友とさせていただきたいと思う方はいらっしゃるでしょうか。これからの人生を、イエス様を友として、イエス様の教えに従って、愛のうちに共に歩んでみませんか。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000