6月16日(日)礼拝説教全文
「イエスは変わることのない望み」 ヨハネ11:1~27
11章1~44節、ラザロの死と、彼が生き返る出来事を2回に分けてメッセージしたいと願っています。
皆さんは、急いでいるときに間に合わない、という経験をしたことがありますか。あせっても、自分ではどうにもならないようなことがあるでしょうか。間に合わなくて諦め、望みを失うことがあるでしょうか。
ヨハネの記す、生ける神の御子・救い主であるイエスが、この地を歩まれたその軌跡「しるし」は7つあります。
これまで6つのしるしを読んできました。
1.水がぶどう酒に 2.役人の息子のいやし 3.三十八年間病いの中にあった人のいやし 4.五千人の給食 5.湖上歩行 6.生まれつきの盲人のいやし
イエスはしるしを行い、しるしを通して御自身が何者であるかを語り、それが波紋を呼び人々と問答される、という流れです。本日は最後の7つ目のしるしとなります。イエスの愛していたベタニア在住の姉妹の弟であるラザロが、死人の中から生き返る出来事です。墓に入れられ、死んで4日もたった男が、生き返る記事です。
これは、人々にとって誰も異論を唱えられない神の御子キリストとしてのしるし、決定的な衝撃的な出来事となります。(生まれつき目の見えない男の癒しもそうでしたが。)
イエスのほとんどの活動の拠点は、ガリラヤ地方のカファルナウムという場所でしたが、ガリラヤから何度もユダヤ地方のエルサレムに上られています。そしてユダヤ滞在中には、このマルタとマリヤ、ラザロの姉弟の家に泊まられる事が多かった様です。イエスが愛して、親しくされていた兄弟姉妹。年齢も同じくらいでしょうか。イエスの弟子たちも20代、30代の人達です。イエスはベタニアに行くことを好まれています。ある説教者はベタニアがイエスの最も心休まる場所であったと言っています。
ベタニアはエルサレムから数キロの場所にあります。
ベタニアでのイエスの滞在の記事は、ルカ11章にマリヤとマルタがイエスを迎えた時の事、ヨハネ12章に高価な香油を主イエスの足に注ぎ、髪の毛でその足をぬぐったマリヤのことなどが記され、そして、ルカはイエスが復活後、ベタニアで人々を祝福されて、天に上げられたとあります(ルカ24:50~)。「ガリラヤの人たち」と呼びかけられているのでガリラヤだと思われがちですが。
① なお2日間滞在された(:6)
弟のラザロが重い病気にかかって、姉のマルタとマリヤはイエスに使いの者を送って知らせます。
「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。来てください。」(:3)
イエスはこれを聞いて、「この病気は、死んで終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われ、ラザロが病気であると聞かれても、なお2日間そこに留まり、すぐに出発されませんでした。(:6)
あえて、行かない、到着を遅らせるイエスでした。すぐに行かないのには理由があります。
② 今起こっている出来事、これから起こる出来事をはっきりと告げるイエス(:7~14)
2日の後に、時が来ます。「もう一度、ユダヤへ行こう。」とイエスは言われます。
弟子たちは、ユダヤ人たちがイエスを石で打とうとした「あの場所へまた、行かれるのですか」と
答えています。前回エルサレムでイエスの反対者たちに石で打たれそうになり、逃れるようにしてヨルダン川を渡ったイエスと弟子たちでした。(10:31~42)
イエスは弟子たちに言われました。「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く。」(:11)。弟子たちはイエスの言葉を聞いて、ラザロが病気で伏せって眠っているものだと思います。
しかし、イエスははっきりと言われます
「ラザロは死んだのだ。私がその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」イエスがその場にいれば、間に合って病気を癒されたことでしょう。しかし、今回は、事情が違います。間に合わなかったということになります。
弟子たちは何事が起ころうとしているのかわからないまま、石打ちにされそうになった危険な場所へ「私たちも行って、主と共に死のうではないか」という覚悟で出発します。
③ 手遅れになったラザロ(:17~29)
ついにイエス一行はベタニアに到着します。すぐには兄弟が住んでいた村には入らず(:30)、イエスが到着した時には、ラザロは墓の中に入れられて4日もたっていました(:17)
完全に間に合わなかったということです。すでに手遅れ、万事休すです。
もはや何も施す手段がなく、万策尽きて、もはやおしまいで、何をしてもだめだ という状況です。
イエスが到着した時には、葬儀も終わり、ラザロの葬儀全ては終わり、墓に入れられて、多くの弔問の人々が彼らの家を訪れていました。喪に服していました。
今か、今かとイエスの到着を待っていた姉のマルタは、イエスがようやく到着されたことを知って、家に来られるまで待てず、迎えに行きます。妹のマリヤは家で座っていました(:20)
マルタの言葉 「主よ、もしあなたがここにいて下さったら・・・」「しかし、今でもあなたを信じています」 あなたの責任ではありません。今もあなたは私の主です。しかしもう完全に手遅れになりました。
イエスは彼女に言われます。
「あなたの兄弟は復活します。」 「終わりの日の復活の時に(弟が)復活することは存じています。」
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
「生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことがない。」
「このことを信じるか?」
とイエスはマルタに問われます。
「はい、主よ。私は あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています。」
私たちの人生にも、「もう手遅れです」という事があります。そこには、もしこうだったらという後悔だけが残ります。親しい者の死をただ泣き崩れ、「召されました」「治りませんでした」と言います。
まさにラザロの死の出来事は、望みが完全に絶たれた人の姿がここに映し出されています。
死んだら終わり、どうにもならない。私たちは生と死のはざまで生きているので、まだ望みがある。しかし、死は敗北。その様に考えます。望みの絶たれた状況です。
しかし!「手遅れだ、間に合わなかった、望みが断たれてしまった」という悲しみの中で、私たちはイエスの言葉を聞くのです。何にもまさる、力あることばです。今日イエスの言葉を聞いて下さい。
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。」
「生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことがない。」
「このことを信じるか?」
イエスにある人生に手遅れはありません。間に合わないということはありません。
神は、私たち信じる者に「復活」という「栄光」を用意されています。
知ってください。受け取ってください。
イエスにある生は、決して死で敗北してしまうものではないのです。
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