10月13日(日)礼拝説教全文

「最も大きな愛」 ヨハネ15:12~15(:17) 

ヨハネによる福音書、弟子たちとの最後の夕食(最後の晩餐)でのイエスの告別説教。 

聖書を読んで、何を知るに優って知るべきことは「イエスの死」についての意味です。何ゆえにイエスは十字架の上で死なれたのか。 ヨハネによる福音書を読んで、これまで語られてきたイエスの死の意味について 「一人の人が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む」(11:50)(大祭司カイアファの言葉) 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12:24)と読んできました。 イエスの死によって、多くの人が救いを得る。命を得る為です。 そしてイエスの十字架の死の意味は、神の愛です。ここに神の愛があります。 

 再びイエスは弟子たちに言われます「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の戒めである」。そして、そのイエスが私たちを愛するその愛がどのようなものであるかを語られます。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」 私があなたがたを愛する愛とは、「友のために(あなたがたのために)命を捨てること」だと言われます。 そして、あなたがたが私の命じているように生き、実行するならば、あなたがたはもはや僕ではなく「友」だと言われています。 

 ヨハネは晩年、彼の手紙の中でこのように書き送っています。 「御子(イエス)は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちもきょうだいのために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、きょうだいが貧しく困っているのを見て(実際の生活で)憐れみの心を閉ざす者があれば、どうして神の愛がその人の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけでなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(第一ヨハネ3:16~18) 

「一粒の麦が死んで多くの実を結ぶ」「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」 この聖書のことばをテーマに、実話を土台として作られた小説、後に映画となったものがあります。 三浦綾子著作の「塩狩峠」です。私もこの小説を読み、映画も何度か観、演劇も何度か観ました。 三浦綾子の出身地である北海道旭川がその舞台となります。 

明治42年2月28日夜、北海道宗谷本線、和寒駅から塩狩峠へ向う列車。客室最終部の連結がはずれて急な峠の上り坂を逆走します。大事故を免れません。その只中で、その列車に搭乗していた鉄道員、長野政雄(永野信夫)が自分の身を線路に投げ出し、列車を止めるという実話です。 ひとりのクリスチャンの青年が、自らの犠牲の死によって、多くの乗客を救うという出来事です。「友のために自分の命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉を、身をもって証しした人の一人と言えます。 

映画の中で心に残る名シーンがあります。 

それは、永野信夫青年をイエスに導いた、伊木一馬牧師の路傍伝道の場面です。 雪が降りしきる夕刻、外套を羽織って旭川駅前で路傍説教をする伊木一馬牧師。 牧師を演じた滝田裕介さんはこのセリフを何度も口にし、ついにクリスチャンになったとのことです。 少し長いですが、その全セリフを紹介したいと思います。 

『人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります。しかしみなさん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。そのことを諸君は知らないのであります。真に自分がかわいいとは、自分のみにくさを憎むことであります。しかし、われわれは自分のみにくさを認めたくないものであります。 たとえば、つまみぐいは卑しいとされておりましても、自分がつまんで食べるぶんには、いやしいとは思わない。人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれのいう悪口は正義のために言っていると思うのであります。俗に、泥棒にも 三分の理といぅ諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。 しかし泥棒には泥棒の言い分があるのであります。 

みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生れつきの目しいをなおし、生れつきの足なえをなおし、そして人々に、「ほんとうの愛」を教えたのであります。

ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさんおわかりですか。みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を我々に下さったのであります。彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないと言う者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし 彼はそれをしなかった。

悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかもみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですか、みなさん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。 

「父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり。父よ、彼らを許し給え、そのなす所を知らざればなり。」聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のために、許したまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります。』

雪の中、感極まって語る牧師。それを聞いている永野信夫青年の場面です。 

数十年前、成田の教会で伝道会を開き、この映画会を行いました。映画を観終わって、ひとりの子供が私のところに来て質問しまた。「竹田先生は、永野さんのようにできますか?」。一瞬、なんて答えようか迷いましたが、「自分にはできないけれど、イエス様がそうさせて下さるよ」と彼に言いました。 永野さんのしたことは素晴らしい。しかし、彼にそうさせたのは、彼の中に生きておられるイエスです。 それがイエスに従う者の生き方です。 

イエスはこれから、今ご自身が語られた最大の愛を示そうとされます。十字架の上でご自身の命をお捨てになります。「友の為に命を捨てる」愛です。「これよりも大きな愛はない」とイエスは言われます。 十字架でイエスが死なれた、命を捨てられたのは、全ての人を、私たちを、そしてあなたを罪と滅びから救うためです。私達の罪の身代わりとなって、罪のない正しいお方が打たれてくださった。罰を受けて下さった。死んで下さったのです。 私たちはそんなに大きな罪を私は犯したんですか?イエスの十字架を通して知るのは、あなたの罪の大きさです。私達の「罪」は、滅びを宣告されるそれほどに深刻なものです。 

イエスは何ゆえにそこまでして、人々の救いの為に犠牲となり、十字架で死んでくださったのでしょうか。 それは、私達に対する最も大きな愛、神の愛です。イエスの愛です。 十字架にイエスをつけていたのは、3本の釘ではなく、私たちに対するイエスの愛です。 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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