10月6日(日)礼拝説教全文

「私につながっていなさい」 ヨハネ15:1~11 

イエスの最後の夕食での弟子たちへのメッセージ(13~15章)はイエスの告別説教と言われており、16章はイエスの祈りです。 最後の夕食の記事の冒頭では「最後まで愛し抜かれた」と読みました(13:1)。 

私たちは、人の間と書いて人間と言われる社会的な者たちです。どこかに属して(所属して)生きています。 日本の国に属している日本国民です。千葉県民、八千代市民、佐倉市民です。そのコミュニティーの中にいます。又、家族の一員として、学校や会社の一員として、どこかの趣味の仲間や団体の一員として、何かのコミュニティーの中にいます。そこには夫婦のつながり、親子のつながり、兄弟のつながり、友人のつながり、職場の仲間のつながり等があります。学問や、スポーツ(巨人・阪神・広島etc…)や、芸術との出会いを通して人とつながり、様々なものを分かち合い、得ています。 本日のイエスの話された説教は、分かりやすく独特です。イエスご自身とイエスを信じ従う者(弟子たち)との関係をひとつの譬えで話されています。 

「私は(まことの)ぶどうの木、あなたがたはその枝です」(:5)。「私につながっていなさい。」(:4)というものです。イエスに従う者は、イエスとしっかりとつながっている心、生活、日々が大事です。「私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言われます(:5)。イエスにつながっている生涯とは、実を結ぶ生涯です。 

* まことの=ぶどうの木はぶどうの実を結びます。そうでないものは違った実を結びます。イエスにつながった者は、イエスと同じ実を結びます。キリストとつながっている人の人生は、キリストに似た者へと変えられていきます。 

 〇 あなたに豊かに結ぶ実とはどのようなものでしょう。二つの内容について話します。 

1、その実とは、御霊の実です。(ガラテヤ5:22~23) 招詞でガラテヤ5:22-23を読みました。ここにぶどうの木の実のように房になった9つの御霊の実が記されています。(肉の行いの実は、15個 ガラテヤ5:19~21) 愛 喜び 平安  寛容 親切 善意  誠実 柔和 節制(自制) 神に対して、人に対して、そして自分に対して。そして、国や社会や自然界、世界に対してもそのような者となります。* DoingではなくBing  何を為したかではなく、どうあったのか。 2、その実とは、永遠の命に至る実(ヨハネ4:36)です。 イエスに従う者が結ぶ実は、イエスによる救い、永遠の命です。そしてそれは、福音宣教の先に、イエスを信じる者が結ぶ実です。 私達の日常生活の言葉の中に、ニュース、新聞・雑誌にも「死」「命」という言葉はあります。しかし、「永遠の命」という言葉はありません。ほとんどの人が「永遠の命」と無関係の生活を送っています。 ぶどうの木に繋がっている枝と、繋がっていない枝(落ちている枝)。ぶどうの木につながっていない枝は幹から栄養・命を得ることがなく枯れて、集められて火で焼かれます。 生まれながらの全ての人は、「罪」そして「死」に繋がれています。イエスは真理、まことのぶどうの木です。そして「(あなたがたは)私につながっていなさい」と言われます。 

 〇 イエスにつながるとはどういうことでしょう。  「つながっていなさい」(口語訳・聖書協会共同訳) 「とどまっていなさい」(新改訳)…直訳的 ぶどうの木と枝の関係は「つながっている」ことです。 イエスを離れては、何一つ、イエスと同じ実を結ぶことはできません。 イエスがそうであられたように、私たちが実を結ぶことにより、父(神)が栄光をお受けになります。 ぶどうの木とその枝は、特にイエスと私達の生命的なつながりを示しています。イエスの持っておられる全てのものが、私達の内に、私達の人生に流れ込む関係を示しています。イエス・キリストの命、永遠の命、神の命が流れ込みます。イエスにつながる人とは、いつもそこから命に与かり続けている人のことです。 

 〇 イエスにつながるとは、具体的にどういうことなのでしょう。  

① イエスの言葉を内にとどめることです(:7、10) 聖書の戒め(:10)、イエスの言葉・戒めに従って生きることです 聖書の御言葉(神の言葉・キリストの言葉)を聞き(読み)、信じ、従う生活です。 

 ② 祈りにとどまること 祈りの生活に身を置くこと(:7) 「望むものは何でも求めなさい。そうすればかなえられる。」(:7) 主に祈り、そして、主が答えて下さるという関係です。 主に向かって祈り、主がそれに答えて下さるということを体験していく、祈りの生活です。 

 ③ イエスの愛のうちにとどまること いつも愛されていることを疑わないで信じ続けていくこと(:9) イエスは私たちを最後まで愛し抜かれるお方です。 「私の愛にとどまりなさい」(:9) 神は、イエスは、いつもどんな時でも、たとえ私が変わっても、自分がイエスにふさわしくないと思っても、変わることなく私を愛して下さいます。罪を犯しても、背を向けても、疑っても、又、生ぬるくなっても。 「しかし、まだ罪人であった時、私達の為にキリストが死んで下さったことによって、神は私達に対する愛を示されたのである。」(ローマ5:8) 神が愛しておられるのは、りっぱなクリスチャンだけではありません。神を信じない者をさえ、全ての人を愛しておられます。条件付ではなく、全ての人を愛しておられるゆえに、主イエス・キリストは十字架の上で、全ての人の罪を負って死なれたのです。 忘れてはなりません。勘違いしてはなりません。クリスチャンが神に愛され、そうでない信仰のない人は神に愛されていないなどと。神にとって、愛する者が罪の赦しを受けず、滅んでしまうという事は、どれほどの大きな神の悲しみでしょう。想像できません。我が子を失う以上の痛み。ましてや、神がここにいるあなたを愛しておられないわけがありません。 

 11節に「これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。」と記されています。永遠の命とは喜びです。 イエスによる喜びは私達の内から溢れ出す命です。喜びのない信仰生活はありません。 私達は生きてはいる。しかし、生かされているゆえに活きていることは、喜びにあふれた人の姿です。喜びなしに生きていても、活きているとは言えません。 「わたし(主イエス)の喜び・命」が幹を通して枝に流れて、私達に満ち溢れることを願って語られたのです。 

「私もあなたがたにつながっている」(:4)「人が私につながっており、私もその人につながっていれば」(:5)。一方的に私たちがつながっているのではない事が語られています。イエスが私たちとつながっていてくださいます。   

* (ウエスレアン・アルミニウス主義)   私達の信仰と、神の恩寵 

つながれている手と手とは、イエスが掴んでいて下さる事への信頼(神が愛して下さる事への信頼)によってイエスの御手を掴む私たち。幼子を引き上げる力強い大人の手、罪と死と滅びの中から私たちを引き上げ、救って下さる神。  

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

0コメント

  • 1000 / 1000