9月29日(日)礼拝説教全文
「イエスの与える平和」 ヨハネ14:27~31
最後の晩餐の席でのイエスの弟子達に対する告別の説教の続きとなります。(14章~16章) これは、イエスの生涯の総括的メッセージです。 場所を用意しに行く(道・真理・命)、新しい戒め「私が愛したように互いに愛し合う」、イエスの名によって願う、私の代わりに弁護者である聖霊を遣わす。
弟子たちがこれから経験するのは、挫折、困惑、不安、恐れ(:19)です。 3年間、師と仰いできたイエスが捕らえられ、十字架につけられ殺されます。師であるイエスを失い、絶望感と自分たちの身に迫る危険の中に落とされ、投げ出される弟子たち。彼らにとって最も必要なものは何でしょうか。イエスがいつも言われていた「平和(平安)があなたがたにあるように」です。
* εἰρήνη エイレイネー(ギリシア語)「平安」が「平和」になっている理由。エイレイネーに一番使われる意味「平和」。辞書の一番初めに表記されている語意。 私たちが受ける「平和」と「平安」の言葉のイメージの違い。平和は誰かとの関係において用いられ、平安は私たちの内側において用いられます。この箇所を「平和」(共同訳)と訳すのがいいか「平安」(文語訳・口語訳・新改訳)と訳すのが良いかは翻訳によって変わりますが、先週のメッセージもそうでしたが、聖霊を弁護者と訳すのは聖書教会共同訳のみ。文語→口語→新改訳の流れに従う私たちは「助け主」と受け止めるのが、その言葉をもって信仰を構築してきた私たちにはふさわしい訳かも知れません。ですから、ここも「平安」と訳すのが良いかとも私自身は考えます。
かつて茨城の教会にいました時に、私はキングスガーデンという老人ホームの奉仕に行っていました。お年寄り達と共にいつも祈るのは、「今日一日、希望をもって、健やかで平安な日を過ごすことができますように」「主の平安がありますように」という祈りでした。
東日本大震災の被災地に足を運びました時に、救援物資の配達・がれきの撤去と同時に、必要なのは、被災された方々の心のケアだと感じました。「主の平安があるように」。
戦争、災害、病気、経済の問題、人間関係の不和、また何も大きなことが無くても、言いようも無い恐れに陥ることがあります。元気がなくなり、眠れない日が続き、食欲がなくなり、やる気がなくなり、どこも痛くないのに涙が出る、自分で自分の心をコントロールできないような状況に陥ることもあります。私たちは願います「主の平安があるように」と。
悲しみと悩みと恐れの中にある私たちに最も必要なもの、それは「平和(平安)」です。 イエスは言われます。「私の平和・平安を与える」
14章のはじめに「心を騒がせてはならない」、27節にも「心を騒がせるな」「おびえるな」とあります。 復活されたイエスが弟子達に最初に言われた言葉も「平和・平安があるように(שלום シャローム)」(20:19、21、26)です。シャロームは挨拶としても使われますが、「こんにちは」と訳すべきではないでしょう。
ヘブル語のシャロームの本来の意味は、単に、争いのない平和な状態を表わすだけでなく、力と生命に溢れた動的な状態を言います。ですから「平安」と訳しても良いと思います。 平和」「平安」「繁栄」「健康」「充足 」「知恵」「救い」「勝利」 今日も復活された主が、この礼拝において私たちにご自身を現わし、十字架の傷跡を示して、最初に言われる挨拶のことばは「シャローム、あなたがたに私の与える平和・平安があるように」だと思います。
私は、平和をあなたがたに残し 私の平和を与える 私はこれを(私の与える平和は)、世が与えるように与えるのではない。(世が与えるものと違います) 心を騒がせるな おびえるな(怖じけるな) イエスの与える平和・平安(シャローム)とは何か。イエスの言われるこの世の平和・平安との違いは何でしょう。
この世の平和は、もみがらの様なもの(詩篇1)。激しい風が打ち付けると飛んでしまうようなものです。その平和は、戦争状態になると一気に吹き飛んでしまいます。もみは、見た目は同じもみですが、中身がないもみは、脱穀機の風が吹き付けると飛んで行ってしまいます。中身のあるもみは、風が吹いても飛ばされません。「平和」を辞書で調べると、「争いの無いおだやかな状態」ですので、争いが起こると、環境・状況が変わると一変してしまいます。
* 牧場の絵と激しい激流の滝の絵
イエスの与える平和・平安(シャローム)、世が与えるようではない平和とは何でしょう。 その「平和」は何かによって欠如したり、損なわれたり、壊されたりしません。全てにおいて充足している「平和」です。肉体的にも、精神的にも、経済的にも、社会的にも、霊的にも、生きる全ての領域においての充足状態をシャロームは意味します。平和 無事 安全 健康 繁栄 安心 親和 和解 人間のあらゆる領域において真に望ましい状態を指しています。 神が望まれる人の真の望ましい状態とは、「平和」です。イエスが私たちに与えるシャロームとは、神による救いを受けている状態を意味します。イエス・キリストにおいて実現された「救いを与えられた者」としての平和に基づいています。キリストの十字架の贖いによって、人の罪が赦され、義とされ、救われて神との平和をいただいている。これを基とする「平和・平安」です。 神との平和、自分との平和、隣人との平和。それは神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する中に築かれます。
私たちの心も身体も決して強いものではありません。風が打ち付けると弱り、恐れに包まれます。しかし、周りや環境が変わっても、イエス・キリストはいつまでも変わることがありません。「極み迄私を愛し抜かれる」イエスは変わりません。 イエスが私の人生に共におられ、(聖霊が働き、霊的な私たちが、霊をもって知ります)このお方を私達は私達の内に持っています。これも弁護者である聖霊が教えます。外側にある目に見えるものは、変化したり、錆びたり、時には奪われたりします。しかし、世のどのようなものも、私たちをキリスト・イエスの愛から引き離すものはありません。
イエスのことばは信じる者の内に実現します。
イエスはこの朝も言われます「私の平和を与える」。
この平和をしっかりと信仰をもって受け止め、この平和を、あなたの家庭に、あなたの隣人に、あなたの生活の場に、又、病に苦しむ人々の中に、争いのある場所に、主によって遣わされ、持ち運んで行きましょう。
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