10月27日(日)礼拝説教全文

罪について、義について、裁きについて」  ヨハネ16:1~11 

最後の夕食でのイエスの告別説教続き。 迫害の予告(15:18~16:4) これからイエスの弟子たちは、イエスを信じるがゆえに、その信仰のゆえに迫害を受けます。会堂から追放されることは、ユダヤ社会から村八分にされることを意味します。神に逆らうものとして、捕らえられ、ある人は殉教します。実際にパウロのような人物が現われ、その間違った熱心さのゆえに「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕しているのだと考える時が来る」、又、律法学者や祭司のように、彼らのねたみのゆえに、保身のために迫害を受けます。最初、クリスチャンへの迫害者はユダヤ人です。そしてその迫害は、当時、皇帝礼拝が行われていたローマ人からの迫害へ拡がります。また、福音が語られる世界の中で、歴史の中で、キリスト者への迫害は繰り返されていきます。

*ただし,、暗黒の歴史の事実として知らなければならないのは、キリスト教界も多くの他の宗教や習慣に迫害・弾圧を加えたことも知らなければなりません。 

イエスは迫害が起こってもつまずくことのない為に あらかじめ弟子たちに語っておられます。 「今私は、私をお遣わしになった方のもとに行こうとしている。私がこれらのことを話したので、あなたがたの心は苦しみで満たされている。」 

何ゆえに、キリスト者は迫害を受けるのか。それは、罪人にその教えは耳が痛いから。世の権力者にとって権力を脅かすものだから。他の宗教や、時には習慣に迎合しないから。もともと、聖書のいう世は、罪の故に神に逆らっているものだからです。その世から、人々を神のもとへ立ち返らせること、それが宣教です。 

しかしイエスは言われます「わたしが去ることは、あなたがたのためになる(益です)」何が益なのでしょうか。繰り返しイエスが言われていることですが、「弁護者である聖霊があなたがたのところへ来る、遣わされるから」です。弁護者である聖霊が来ることは、悲しみに沈み、苦しみ悩み、恐れに捕らわれてしまう弟子たちに、彼らが力強い証人・宣教者、「人間を漁る漁師」となる為に、何よりもイエスが伝えたいことです。 目に見えるイエスが弟子たちと共にいること、それにも優る益とは、世界の全てのイエスに従う者たちと、目に見えない弁護者・聖霊が共にいてくださることです。 そのお方は、世(神を知らない者、神を恐れない者、神に無関心な者)の誤りを明らかにさせます(認めさせます)。何が世の誤りなのでしょう。

「罪について」「義について」「裁きについて」。 本日の説教題となります。  

*(ローマの信徒への手紙 1章、罪について・2章、裁きについて、3章、義について) 

聖霊がこの世の誤りを認めさせる 罪 義 さばき とは何でしょうか。 

「罪について」  罪とは、神から遣わされた救い主イエス・キリストを信じないことです(:9) 聖霊、真理の御霊は、全ての人が罪のもとにいる罪人(罪の奴隷)であることを明らかにさせ、認めさせます。 自らが、神の前に「罪人」であることを自覚する・認める者は幸いです。聖霊がそれを知らせて下さっているからです。もっというならば、聖書を通して、滅びざるを得ない、十字架につけられなければならないほどに自分は罪深い者であることを認める者は幸いです。自らの罪の大きさを知る者とは、聖霊によってそれを教えられた者ということができます。 私は罪人ではない!私たちは自分の罪を認めたくない者です。誰かと比べて、私はそんなに罪深くないと考えます。法律を破っていない。犯罪を犯していない。誰かに責められたり、後ろ指を指されるような人生を歩んでいない。しかし、イエスの言葉、聖書の戒めに触れる時、私たちがいかに罪深い者であるかを知ります。

人を殺したことはありません。しかし、私たちの心は怒りといらだち、憎しみに満ちています。 

誰かのものを盗んだことはありません。しかし、私たちは必要を大きく超えて他者の持っている者をうらやみ、欲しがります。 

偽証をしたことはありません。しかし、自分を正当化するために私たちは、他者を追い込み、威圧し、自分の意見を通します。 

姦淫をしたことがありません。しかし私たちの内には、異性をみだらな思いで見る色欲や曲がった性欲があります。罪を犯して罪人になるのではない。罪人であるから罪を犯すのです。 

そして、聖書を読んで私たちが知るのは、ここが大事な「罪」についての世の誤りですが、殺す、盗む、偽証をする、姦淫をすることよりむしろ、罪とは真の神を認めず、自己中心で(欲望)、神に感謝せず、礼拝せず、神を認めないで軽視すること、神に対して不敬虔な者であることです。 ローマ1:18~32 人は神への不敬虔が、神によって造られた人の、最大の罪であることを知りません。世界を造られ、私たちを造り、私達の救いの為にひとり子イエスを送って下さった神を信じないことです。 

聖霊の示す罪とは神を信じないことです。 

罪から解放されるとは、神を信じることです。信じる(信仰)とは、神を信じて仰ぐ、礼拝す、交わる。日々神を見上げる生活です。 罪の根源は、神を信じない。神を認めないことにあります。 神との交わりの断絶こそが、命との断絶、「死」です。 自らの罪を悔い改め、イエスを信じる者、神を信じる者は幸いです。 

「義について」  義とは、イエスが父のもとに行き、イエスを見なくなることです(:10) 

義とは、私達の正しさではなく、イエスが私達の罪の為に十字架で死んでくださり、この身代わり、贖いの死によって、私達は罪赦され、義とされる、神の義です。 イエスが十字架で命を捨て、三日目によみがえり、そして天に帰られてから、聖霊が彼らに臨むときに分かります。 

神の義が現わされました。「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現わされました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです」(ローマ3:21)律法を守って義とされるところから離れて(昔モーセは石に書かれた律法を受けとったが、それを守ることはできなかった。それを守ることによって義とされるとユダヤ人は歩んできました) 人は律法を守って正しく生きようとするなら義人になれると考えます。しかし、義人に罪人である私たちはなれません。 

「裁きについて」  さばきとは、この世の支配者が裁かれたことである(:11) 

罪に定められるか、無なしとされるか 神の戒め、律法を守らない者が裁かれるのではなく、イエスを信じない者が裁かれます。(9:39) 神の裁きはイエスに託されています。 

人は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定まっています。自分の行い、罪について言い開き、弁明、申し開きをしなければなりません。全ての人は、必ず神の前に立ち、さばきを受ける時が来ます。

ヨハネの黙示録には終末の預言があります。  世の終わりの時、神に逆らうもの、不遜な者、信じないものは裁かれます。 「すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。 

「従って、今や、キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」(ローマ8:1) 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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