11月3日(日)礼拝説教全文

「大逆転の勝利への道」 ヨハネ16:16~24 

 最期の晩餐の席での告別説教(13章~16章)と祈り(17章) 

「しばらくすると、あなたがたは私を見なくなる」「またしばらくすると、私を見るようになる」(:16~19) 

 イエスの言われる『イエスを見なくなり、また見るようになる』『父のもとに行く』『しばらくすると』とは、どのような意味か弟子たちにはわかりませんでした。 

「イエスを、しばらくすると見なくなり、しばらくすると見るようになる」の3つの意味 

十字架と復活  

イエスを「しばらくすると見なくなる」と言われるその意味は、 間もなく、イエスは十字架の上で死なれ、その身体は墓に葬られます。弟子たちは苦しみ、悲しみの中に沈みます。弟子たちの苦しみと悲しみの大きさは計り知れません。 

「しばらくすると見るようになる」とは、 イエスは三日目に復活されて、弟子たちは再びイエスと会い、喜びに満たされることです。 イエスが最後の夕食の席で弟子たちに伝える大事なメッセージは、イエスの最大の使命である十字架と復活です。 イエスの十字架の苦難と復活の勝利は、「女が子を産む」ことと同様に、出産の苦しみ・痛みの後に、子供が生まれた喜びが、その苦しみを覆い包んでしまうようなものです。 「しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる」そして「その喜びを奪い去る者はいません」 

 昇天と再臨   

イエスを「しばらくすると見なくなる」と言われるイエスの言葉の意味は、 イエスが「父のもとのに行かれる」ことです。私たちのために、父のもとに行かれます。イエスは、私たちを迎える為に、私たちの場所を用意しに、父のもとに行かれます。又、私たちのためにご自身の血を携えて執り成す永遠の大祭司として、神の前に、神の右に座されます。私たちを見捨てて、置き去りにしてイエスが父のもとに帰られるのではありません。イエスは天に帰り父に願われます。ご自身の代わりに弁護者である聖霊を私たちのもとに遣わすためです。 イエスが父のもとに帰られる(天に昇られる、昇天される)のには、私たちへの神の祝福・目的があることを知ってください。イエスが世を去ることは、私たちにとって大きな益なのです。 

「しばらくすると見るようになる」とは、「再びイエスが来られる」ことです。やがてイエスは再び、この地に来られます。私たちは主が来られるのを、イエスの約束を信じて待ち望んでいます。イエスを待ち望む者たちにとって、この世のどんなに大きな苦しみの中にあっても、一瞬にして大きな喜びに変わります。

 臨在  心の目で、信仰の目で神を見る(知る・経験する)ようになる  

今私たちに父のもとから遣わされている聖霊は、目に見えないイエスを、イエスの臨在を知らせます。聖霊はイエスが復活され、今も生きておられる神、私たちのただひとりの救い主であることを知らせます。私たちは、聖霊によって目に見えないお方、イエスが、私たちの人生に共におられることを知ります。目には見えないけれども、知るのです。それが私たちにとっての心からの喜びであり、その喜びを奪い去る者はいません。 「主イエスは生きておられる!」と心から、真実をもって、喜んで告白するのです。 目で見たことのないお方を信じて、大きな喜びに満たされているとは不思議なことです。真理の御霊である聖霊が私たちの心の目を開き、明らかにして下さらなければ、誰も知ることはできません。聖霊は神からの教師です。 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見ていないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです」ペトロの手紙第一1:8~9 

 イエスの臨在を知り、そして、イエスが今も世に神の業を成し続けておられる証拠 

「よくよく言っておく。あなたがたが私の名によって願うなら、父は何でも与えてくださる。今までは、あなたがたは私の名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば、与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(:23~24) 

 イエスは「貧しい人たちは幸いです。天国は彼らのものです」「悲しんでいる人は幸いです。彼らは慰めを受けます。」と言われました。どうして貧しい人、悲しんでいる人が幸いなのでしょうか、「しばらくして」その先があるからです。私達の人生には悲しみ、苦しみがあります。しかし、その悲しみは 喜びに変わります。 それは、私たちが主イエスに出会う時です。    

悲しみよ    水野源三 作 

悲しみよ 悲しみよ 本当にありがとう 

お前が来なかったら つよくなかったら 私は今どうなったか 

悲しみよ 悲しみよ お前が私を  

この世にはない大きな喜びが かわらない平安がある 

主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ 

 苦しまなかったら 水野源三 作 

もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった 

もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった 

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった 

 キリストの名によって集められ、キリストを中心とした交わりの場、それが教会です。 教会は会見の幕屋、主に会う場所です。 イエスは何度でも私達に、聖霊によって御臨在を現わしてくださいます。 イエスが私たちと共におられる喜びが、悲しみ、苦しみを飲み込んでしまうのです。 それが、イエスの言われる、「悲しみが喜びに変わります」という人生の大逆転なのです。 

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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