11月10日(日)礼拝説教全文
「世に勝つ者とは誰か」 ヨハネ16:25~33
聖書教会共同訳見出し イエスはすでに世に勝っている
最後の夕食の席でのイエスの告別説教総括(13~16章) 全てが大事なメッセージですが、特に覚えたいことがらは、 イエスが愛したように互いに愛し合うこと、イエスが父なる神へ続く一本道であり、真理であり、命であること、弁護者である聖霊が遣わされること、そして、イエスの名によって祈ることです。
私は子供の頃から親や牧師、教会の兄弟姉妹の祈りの言葉を耳にしていたので、祈り方を教えてもらったことはなく、自然に覚えました。しかし、はじめて祈る人に、どのように祈るかを教える時があります。「天の父なる神様と呼びかけてください。そして、感謝と願いを神に聞いていただき、最後に主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。と祈ってください。アーメンは『本当です』『真実です』という意味です。神をほめたたえ、時には悔い改めの祈りをすることも大切です」とお話しします。 ある方が洗礼を受ける時、初めて祈って下さって、「『お父さん』と呼びかけるのは何とも気恥ずかしいものがありますね。私は父親とあまり良い関係でなかったので、本当に久しぶりに、『お父さん』という言葉を口にしました」と言われました。最初の祈りを覚えていない私は、とても新鮮な感じを受けました。
イエスは弟子達に新しい祈り方を教えられました、「今までこのように祈ったことはなかったが、これからはこう祈りなさい。私(イエス)の名によって祈りなさい」。世界中のキリスト者が、イエス・キリストの御名によって(通して)お祈りしています。父なる神に求めています。神社やお寺の境内の中に、お祈りの作法について書かれている看板などを見かけることがあります。当たり前かも知れないですが、これは、クリスチャンだけの祈りの方法です。イエスの名によって祈るのは、そのお方、イエスによって救われた者の特権です。
イエスの告別説教を通して、弟子たちは「イエスが神のもとから来られたお方であることを信じます」と告白します。イエスは父のもとから来られて、今、世を去り、父のもとへ行こうとされています。 イエスは彼らの信仰の告白を聞いて喜ばれたのではなく、このように言われます、 「あなたがたは散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。」 この言葉も弟子たちにとってはショッキングな言葉であっただろうと想像します。 しかし、イエスの言われた言葉は、全てその通りになります。 イエスがこれから起こることを予めお話しになったのは、「あなたがたが私(イエス)によって平和を得る」ためだと言われています。自分たちの身に起こったことを驚くことはない。私が言う通りに神のご計画は進んでいる。「あなたがたには世で苦難がある。」私たちの歩みには様々な苦難があります。キリストに従う道は迫害や、信仰あるがゆえの世での悩みがあります。
しかし!今日、イエスの言葉を聞いて下さい。 「勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」 私たちキリスト者は、常に、イエスに代わって遣わされた弁護者である聖霊の助け、支えによって、イエスがそうであられたように、世にある全ての苦難の中で、救いと解放と癒しを「イエスの名によって祈り」、イエスの業を運んでいくのです。
9月15日(日)礼拝で、ヨハネ14:7~15から「イエスの名によって祈る」という説教をしましたが、15:16、16:23~24、そして16:26と、何度も、イエスが「私の名によって祈りなさい」と、と語られています。 もう一度言いますが、「名によって」とは、キリストの権威を示します。多くの驚くべき神の御子のしるしを為されたイエスの権威です。私たちを罪から救い出す救い主イエスの権威です。 それは神による保証であり、契約書類のお墨付き、実印、実署名のようなものです。 弟子たちは目の前におられるイエスに願って、イエスに何かをしていただくのではなく、イエスの名によって、私たちを愛して下さる父なる神に願うのです。 私たちの「祈り」はイエスが介在される業であり、この世に神の栄光が現れる時です!
参照:
すべての名に優る名(フィリピ2:9~11)
「イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒行伝3:1~10)
キリスト者=キリストの御名を呼ぶ者たち パウロ=キリストの名を全世界に運ぶ選びの器 (使徒9:15)
大胆に、信仰をもって、イエスの名によって「祈り」「求め」「祝福し」「解放を与え」「癒しを運ぶ」者でありたい。ご自身の名にかけて、必ず主は応えてくださいます。 「世に勝つ者は誰か。イエスを神の御子と信じる者ではないか。」(第一ヨハネ5:5) I HAVE OVERCOME THE WORLD ! キリストにあってすでに勝利しています。「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」(詩篇14:1)とありますが、聖書は一回きりの人生を歩む私たちに対して、「世に勝つ者とは、イエスが神の子であると信じる者ではないか」と告げています。
アッシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」
「私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところにゆるしを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、誤っているところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。 慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、私が求めますように。私たちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、自分を捨てて死に、永遠のいのちをいただくのですから。」
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