11月24日(日)礼拝説教全文
「世がイエスを信じ、知るために」 ヨハネ17:20~26
17章、弟子たちとの最後の夕食の中でのイエスの祈りの言葉
① ご自身のために(:1~5)
② 弟子たちのために(:6~19) 「彼らのためにお願いします。世のためでなく、私に与えてくださった人々のためにお願いします」(:9) 弟子たちの為にイエスが父に願う事は、わたしの名(御名)によって彼らを守って下さい(:11、15) 御言の真理によって聖別して下さい(:17)
③ 「世」のために(:20~26) 「また彼らについてだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々についてもお願いします」(:20)「 彼らの言葉」とは、彼らが目撃したイエスの十字架と復活の証言です。イエスこそ、神の御子、救い主であること。 「世」が、イエスが神の御子であることを信じるように。(:21、:23) 「世」が、神の愛を知ることができるように。(:23)
イエスが願っておられるように、「世」の人々が、イエスが神のもとから来られた、遣わされた神の御子であることを、どのようにして知ることができるのでしょうか。「世」の人々が、神がどんなに愛しておられるのか、をどのようにして知ることができるのでしょうか。それは、イエスの祈りの中にあります。
ひとつとなることによって(イエスが愛したように互いに愛し合うことによって)
① イエスと私たちがひとつとなることによって(父なる神とイエスがひとつであられるように)
迫害の中にあっても、「世」と異なる(憎まれる)生き方の中にあっても、イエスとひとつとなって生きる歩みの中で、「世」がそれを見て、イエスが神から来られたお方である真実を知ります。偽りの証言の為に命を捨てる者はいません。
② イエスを信じる者たちがひとつとなることによって
イエスに愛されているように、キリストの兄弟姉妹である私たちが互いに愛し合うことによって、「世」がそれを見て、イエスの愛を知るようになります。 もし、イエスを信じるという人々が、神を信じない人々に迎合して、彼らの生き方と同じで、彼らに倣うものであったとしたならば、誰がイエスを信じるでしょうか。非常識であってはならないし、世の善である法律には従わなければなりなせんが、時にはイエスの歩みは時代の慣例に対して非常識なものとされるものもあります。もし、キリストを信じるという人々が、互いに争い合い、無慈悲で無関心であったならば、誰がイエスを信じるでしょうか。
イエスが十字架で命を捨て、三日目に復活されて、天に昇られてからの弟子たちの歩み・生き方。又、私たちキリスト者の日々の歩み・生き方は、「世」(まことの神を知らずに生きている人々が)がイエスを信じ、神の愛を知るための鍵となります。 天国への、永遠の命への鍵を、私たちはイエスに託されているのです。
イエスの祈りの中にある「ためです」 その願いの理由を告げる言葉。
彼らも一つとなるためです(:11、:21、:22、:23) 3回繰り返されている言葉です。 わたしの喜びが彼らのうちに満ち溢れるためです(:13)
神が彼らを愛してくださったことを彼らが知るためです(:21、:23)
神の愛とわたしが彼らのうちにおるためです(:26)
イエスの願いは、私たちが一つとなることです。 教会が一つになること。私たちが、教会が一つになる為には、一つになるなり方があります。この世の一致とは違ったものです。
A、祈りによる一致 共に祈る (:11、:15)
イエスの名によって祈る。心を合わせて祈る。神を父と呼び、聖霊のとりなしを受け、イエスの名によって祈る。いつも祈りの中に主が共にいて下さることを覚えて祈ることです。*同じ場所で祈る・・・使徒行伝のペンテコステの記事。主の復活におけるトマスの記事。祈祷会の勧め。なぜ祈祷会に出席する必要があるのでしょうか。礼拝は守るべきものですが、祈祷会は進んで出席するものです。イエスの御名によって祈りによって私達は守られます。悪しきものから、災いから、罪の誘惑から、試みから祈りによって守られます。
B、御言(真理)による(聖別の)一致 イエスの教え(みことば)による一致 (:17)
教会員一同が一つの御言を聞くこと。御言によって聖別されることです。 御言には、その真理で私達を聖別する、きよめる力があります。 なぜ私達はこのように集まって主を礼拝するのでしょうか。一つの御言を共に聴く為でもあります。 教会の一致、教団の一致、キリスト教会の一致があります。
C、イエス・キリストによる(愛の)一致 キリストにつながる故の一致
イエスが言われる「ぶどうの木」のたとえのように、枝が枝につながるのでなく、しっかりと幹につながって枝に一致があります。私たちの交わりの間にはいつもイエスがおられます。大事なのは、まず私がしっかりとキリストに繋がる、とどまることです。コイノニア(交わり)とは、イエスがいつも中心にいて下さる交わりの事であり、この世の交わり、一致とは異なります。
キリストにしっかりと繋がるとはどういう生活なのでしょうか。キリストのうちにとどまる人とはどのような人なのでしょうか。それは、いつもキリストの愛のうちにいる人です。キリストの愛のうちにとどまると人とは、いつも主の十字架を見上げている人。私が罪人であったときに主が十字架の上で私の罪を贖い、身代わりとして、命を捨てて下さった。その私の為に命さえ捨てて下さるキリストの愛を疑わないで、信じて、信じて、いつもキリストの愛の中に身を置き続けていく一瞬一瞬、毎日、その生涯です。
そのような生涯を送るために何が必要なのでしょうか。それは神の前に、十字架の前にへりくだった、砕けた心と、生きる姿勢を持ち続けることです。
この「世」にはないキリストにある一致が教会に、私達にあります。私達が口先だけではなく真実をもってイエスに従い、互いに愛し合うことによって、キリストを知らない多くの人々、「世」が、キリストの愛を知っていきますように。繰り返しになるかも知れませんが、教会に一致がなく、キリストの愛の交わりもなければ、キリストを知らない人々が何を教会に見出すことができるでしょうか。 イエス・キリストの愛のうちに身を置きなさい。身を置き続けて、置き続け抜いて下さい。
「(すべての人をひとつにしてください。)…こうして、あなたが私をお遣わしになったこと、また、私を愛されたように、彼らをも愛されたことを、世が知るようになります」(:23)
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