8月2日(日)礼拝説教全文
「門はすでに開かれている」 マルコ7:24~30
(並行箇所 マタイ15:21~28)
並行箇所を毎週載せているのは、福音書で最初に書かれたのがマルコによる福音書で、他の福音書はマルコによる福音書を目にした後に、別の著者が新たにイエスの生涯について書いたとも考察でき、並行箇所(同じ出来事について書かれたもの)を比較する事は、出来事をさらに深く読む手掛かりとなります。マタイ、マルコ、ルカによる各福音書は共観福音書と呼ばれ、マルコの90%がマタイに書かれており、45%がルカに書かれています。
又、福音書のようにまとまった形でイエスの生涯が書かれた書物の他に、イエスの語録集というものがあったという説もあります。
今回は特にマタイによる福音書と比較しながら読んでみるのが良いと思います。
私たちの人生には様々な苦しみ、悩みがありますが、家族のひとりが病気であるという痛みがあります。親であったり子であったり、兄弟であったり…。
小さな自分の娘が苦しんでいる、悪霊につかれていて何も対処出来ず、ただ見ているしかない。我が子が苦しんでいるのを見る母(家族)の苦痛とはどんなに大きなものでしょうか。それは愛して止(や)まない愛ゆえの苦しみです。
* 子供病棟で病気と闘う小さな者達。
1、異邦人の女
スロ・フェニキア生まれのギリシア人である女 (:26)がイエスを尋ねて来ました。ユダヤ人ではなく、異邦人であることが強調されています。(マタイによる福音書では「カナン人」となっています。)
ここにはユダヤ人が投げ捨てた命のパンを、異邦人が切に求め、得るという構図があります。パンの奇跡の後、どこでも群衆に囲まれて休むことのないイエスと弟子たちの様子を私たちは福音書の中に見ます。主イエスを拒絶するユダヤ人指導者、パリサイ人、律法学者との論争の末、イエスはその身をしばらく静かな場所に潜めようとして、弟子たちと共にツロとシドン地方に来られた時の事でした。
2、求め続けた女(母の愛) 何が彼女をここまで突き動かしていたのか
小さい娘が汚れた霊(悪霊)につかれていた、と記されています(:25)。
女の心に満ちていたものは何だったのでしょうか。小さい娘をなんとか治してやりたいという一心、母としての愛です。この方にすがる以外に道は無い。弟子たちに退けられても(マタイではそのように記されています)、そして、イエス本人に退けられても、彼女はあきらめませんでした。女はイエスの足もとにひれ伏して願い続けました。
3、イエスの対応
ここには、今まで私たちがマルコの福音書を通して見て来たイエスとは違った、いつものイエス様らしくない対応があります。多くの悪霊を追い出し、病人を癒し、人々の悩み・苦しみに応えて来られたイエスでしたが、ここでは、女の求めに応じられません(:27)。イエスは女にご自身の使命について説明を始められます。
イエスと女の間にこのようなやりとりがあります。
イエスは「子供たち(ユダヤ人)のパンを取り上げて、小犬(異邦人の女)に投げてやるのは良くないことです」と言われます。「しかし、女は言った。『主よ、その通りです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちたパンくずはいただきます。』」
マタイによる福音書には「しかし、しかし、しかし」と、イエスと女の対話が書かれています。そして最後に、食い下がる女に対して、イエスは「そうまで言うのですか。」(:29)と言われます。マタイの書では「ああ、」と声を発せられ、イエスが折れるようにして(折れていらっしゃるのではないが)女に「あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように」(マタイ15:28)とお応えになります。彼女の娘はその時に直りました。
4、イエスの真意
「子犬」という響きは、「小さい娘」に重なることばです。犬というのは、異邦人をさげすむ言葉でありますが、「子犬」とおっしゃいました。イエスの返答は、確かに女の求めを拒んでいます。しかしそこには、いつものように変わらない愛情を含んだイエスの言葉の響きがあります。「子犬」は犬ということばから毒気、とげを抜いた表現です。イエスがこう言われた時の表情を想像できるでしょうか。イエスは顔をしかめて拒絶されているのではなく、愛を込めながら拒絶しておられます。今はその時ではない、と。
イエスは、門を堅く閉じてはおられない。すでに門を開いておられます。
「子犬でも食卓から落ちたパンはいただきます」というギリシア人の女の機転の利いた言葉によって、みごとに門が開いたようにも思える記事ですが、実は、イエスの側に、既に女のために押せば開かれる門は用意されていました。
私たちがイエスに求める時にも同じです。叩き続けていく時、必ず門は開かれるのです。それは、私たちがしつこく(粘り強く)求め続けたから、ということもありますが、既に門は開かれるように用意されているからです。
イエスの使命は、まずユダヤ人に救いを宣べ伝えることでした。「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」(マタイ15:24)。
神は、決まったことだから、計画だから変えないと言われるお方でしょうか。イエスの行動の優先順位は、いつもあわれみです。イエスは誰に対しても愛とあわれみに満ちたお方です。
イエスは、へりくだって神の恵みを求めて来る者を、誰であっても拒絶されることは決してありません。
5、女の信仰
マタイによる福音書では、イエスが女の対応に感心されたと書かれています。「ああ、あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように」(マタイ15:28)。イエスがお褒めになった「りっぱな信仰」とは何でしょうか。
それは女が他の何か、誰かでなく、イエスに求めたことです。あきらめずに、やめずに、熱心に求めたことです。そして、自分の全存在を投げ出して、「ひれ伏して」、ヘリ下って求めたことです。
ここに見られるのは、イエスのあわれみの中にある女の、イエスへの願いです。割礼があるから、ユダヤ人であるから、洗礼を受けたから、クリスチャンであるから、「・・・であるから自動的に」ではなく、むしろ、パンを受ける資格がない(「子どもたち」〈ユダヤ人〉ではない)と十分に知った上で、宣言した上で、食卓の下にある子犬であることを認めつつも、尚もイエスに願う女の「りっぱな信仰」です。資格がない、相応しくないという姿がへりくだりです。自分は当然主の恵みを受けるに相応しいと思って胸を張ってイエスの前に出る人は誰でしょうか。
私達は日々の歩みの中で、目を、心をどこに向けているでしょうか。イエスに向いているでしょうか。
この女のように、体当たりでイエスに向かっているでしょうか。
与えられないのは、求めないから、そして、途中であきらめてしまうからではないでしょうか。
イエスは生ける神の御子、私たちの救い主です。あなたは、このお方に求めていますか。あわれみに満ちたイエスに信頼して求めていますか。
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