9月13日(日)礼拝説教全文
「神の国が力をもって到来する」マルコ9:1~13
(並行箇所:マタイ17:1~8 ルカ9:28~36)
本日の聖書箇所は、イエスが3人の弟子と山に登られ、その御姿が変わったという出来事についての、「変貌」という言葉の使われる記事です。聖書協会共同訳聖書の表題では、「イエスの姿が変わる」として、1節までが前章の記事の続きとし、2節から13節までの内容と区分しています。区分としてはそのようになりますが、本日は9章1節のみことばをテーマとして、13節までの内容を読んでいきたいと思います。
聖書は、イエスは天から下って来られた神のひとり子(神の御子)であり、人となられたお方であると証言しています。十字架の死に至るまで、神としてではなく、徹底的に人としてその生涯を歩まれたお方です。
私たちと同じようにお腹が空き、疲れ、打たれれば痛みがあり、血が流れます。「罪がない」という一点の外は私たちと全く同じ人間です。
しかし、ただ一度、イエスがその生涯で、神の栄光に輝ける本来の姿に戻られた出来事がマタイ、マルコ、ルカによる各福音書に記されています。それが本日の山の上での変貌の記事です。
「それから6日たって」とあります。「それから」とは、ペテロの信仰告白に続いて、イエスがご自身の苦難の道と復活について、あからさまに弟子たちに話され、「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と言われてから6日の後の出来事です。イエスの変貌の記事は、十字架と復活に向かわれることと深い関りがあります。
いよいよイエスの最大の使命である、私達のために新しい「救いの道」を開く、そのご計画に向かって進まれる時であります。
私達は何か大切な計画を実行するに当って、会議や話し合いをしたりします。もちろん、イエスは神の御子であられますから、誰か人に相談する必要はありません。しかし、人となられて 父なる神に従う人として、語る時を持たれました。
「神の国が力をもって到来する時」(:1)。「神の国の到来」、それは、神の大いなるご計画の、新しい時代の幕開けであります。神の国(Kingdom of God)については、「やがて来るべきもの、既に来ているもの」という表現が聖書の中にあります。
日本や多くの国で使っています西暦は、BC(Before Christ)とAD(anno Domini「主の年の」の意味)によって歴史を二分しています。イエスが来られる前と、来られた後です。世界は変わりました。2020年という年号は、違った意味では世界が変わった日以来の年数、と考えることができるでしょう。イエスが来られて、新しい時代が来たのです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です」(第二コリント6:2)。
あなたは、あなたが生活している今の時をどのように見ていますか。「神の国が力をもって到来している」時だと知って生活していますか。
イエスは、ペテロとヨハネとヤコブだけを連れて高い山(ヘルモン山とタボル山のどちらか、不明)に登られました。十二弟子の中からこの3人を連れて、という記述は他にもあります。又、これまで何度も、神のみわざを公にされることを望まれず、誰にも話してはならないとイエスが言われたことがありました。
変貌の出来事
彼らの目の前で、イエスの御姿が変わり、その御衣の白さは光り輝くものでした。
ここには神本来の栄光(威光)、神の御子であるイエスの御姿があります。
イエスの描かれた聖画などには、頭の後ろに光輪のようなものが描かれているものがあります。
「神は光であって、神のうちには少しの暗いところもない」(第一ヨハネ1:5)。神の御性質は「光」です。
イエスと語り合う人たち
モーセ(律法の代表者)とエリヤ(預言者の代表者)がイエスと語り合います。モーセとエリヤは旧約聖書を示す代表者と言えます。イエスは、旧約聖書の律法と預言(者)の成就者(完成者)です。「わたしが来たのは、律法や預言者を廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(マタイ5:17)
旧約聖書=律法(トーラー)、預言者(ネビーム)、諸書(その他の書、ケトゥビーム)で構成されています。
律法と預言者の果たすべき役割について考えてみましょう。
「律法と預言者」に関するイエスのことば
「何事でも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)
「律法と預言者は(バプテスマの)ヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、…」
(マタイ11:12~14、ルカ16:16~17)
「律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタイ22:40)
律法=神の戒め(契約) 預言者=神のみこころ(ご計画)・神のことばを民に伝える者
イエスが二人と語り合ったその内容は何であったでしょうか。ルカ9:31では、「エルサレムで遂げようとしておられるご最期について」と書かれています。それは、イエスの十字架と復活による新しい契約について、です。イエスの十字架と復活の出来事は、旧約聖書の律法と預言者の成就を意味します。
いよいよ十字架による、イエスの贖いの血による神の新しい契約が始まろうとしています。律法と預言者を遙かに超えた、力ある 新しい救いの道です。律法によっても、預言者によっても到達することのできなかった、完全なる「救い」と「救いの計画」です。イエスとモーセとエリヤの3人がどのような話をされたのかは記されてはいませんが、新しい契約による新しい時代、「神の国が力をもって到来する時」、それはどんな内容であったのでしょう。そして、ここで話し合われた内容、神のご計画「イエスの血による新しい契約」の中に当時から2000年後の私も、あなたも入れられているというのは何という驚くべきことでしょう。
父なる神の証言があります。(参照「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(1:11…洗礼の時の証言)
「これはわたしの愛する子。これに聞け(シェマー)」(:7)と言われます。
(すなわち)律法と預言者とは成就した。神の国は近づいた。これに従え。私の愛する子、イエスに聞け。十字架の道を共に歩め。その十字架の道は、あなたの唯一の救いの道なのだから。
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