9月6日(日)召天者記念礼拝 説教全文
「死は勝利にのまれた」 第一コリント15:50~58 (参照:イザヤ25:8)
勝田台教会での召天者記念礼拝は、私にとっても早いもので4回目となります。平常なら今年も例年通りこれまでの49年間の勝田台教会の歩みの中で、天に召された方々の写真を講壇前に置いて、おひとりおひとりの名前をお呼びして、ご遺族の方々と共に故人を偲ぶところですが、コロナ禍により、礼拝を動画で一般公開していますので、お名前を呼ぶことはしません。
しかし、やがて復活の日には、主イエスが名を呼んで、「起きなさい」と声を掛けて下さるでしょう。又、私たちもいつか、召天者記念礼拝で、自分の写真を置いていただき、名前を呼んでもらう日が来ることでしょう。その復活の日、イエスに名を呼んでいただける者は幸いです。
私たちの教団の墓地が八王子にあります。私は板橋教会在任中、毎年2回、教団の合同記念会に参加していました。板橋教会の多くの教会員がここに納骨されていたからでもあります。東京霊園にある教団の墓には「死は勝(かち)に呑まれたり」(第一コリント15:54)という聖書の言葉が刻まれています。いつもその墓標を見ながら、追悼、納骨の時を持ちました。いつか勝田台教会も、教団の合同記念会に参加したいと召天者記念の日を覚えて、願っています。
本日は召天者記念の日を覚えて、この第一コリント15章54節、「死は勝利にのまれた」というみことばを中心に、メッセージお取次ぎしたいと思います。
死は何歳だからということではなく、年老いた人にも、若い人にも、ある人には突然、ある人には長い闘病生活をしてやって来ます。私達の人生の最後は、例外なく、全ての人が「死」を迎えねばなりません。そして人類はいつもこの「死」に向き合ってきました。全ての人、誰もが避ける事のできないものです。
そして、それは私やあなたにとっても必ず向かい合うべき最期の課題であります。どんなに健康で頑丈な身体を持っていても、どんなに最先端の医療をもってしても、多少寿命は伸ばすことができたとしても、人は必ず死を迎えます。
「死」の前には人は無力であり、「死」は人の力の及ばない領域です。
東日本大震災の時には、多くの人々が当たり前の日常から「死」と向き合う時でもあったと思います。
「死」はまさに津波、川の氾濫のようなもので、いかに抗(あらが)おうとも、必ず私達の人生に追いつき、私達の人生の全てを呑み込んでしまう、そのようなものだと思います。
死ぬとどうなるのか。暗闇の中に入るのか。何も見えない、何も感じない。何もかも無くなってしまうのか。その先にある「闇」に、私達は恐れを抱く者たちであります。
本日、召天者記念礼拝において、私たちは共に希望のみことばを聞きましょう。
聖書は、キリスト者の「死」についてこう約束しています。
「終わりのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちに変えられる」「死者は朽ちないものによみがえる」「朽ちるものは朽ちないものを着、死ぬものは不死を着る」「その時が来る!」
キリストの復活を根拠に、イエスを信じる私も、あなたも、みな一瞬のうちに変えられる時が来ます。それは、遠い未来ではない。そして、今日ここに開かれている聖書の約束のことばを、私たちは信じています。
私達は毎週礼拝で告白します。「身体のよみがえり、永遠の命を信ず」と。
「死は勝利にのまれた」。その時、死が私たちの人生を呑み込むのではない。キリストにある勝利が、死を呑み込んでしまうのだというのです。私たちには確かに、キリスト・イエスによって、その日が来ます。
イエス・キリストはこの救い、よみがえりの命、永遠のいのちを与えるために、この地上に来られました。
今の私たちにある寿命の尽きてしまう命ではなく、新しい命をイエスが下さいます。
よみがえりの命を、「死」に対する勝利を私たちに与えるために、キリストは死から復活されました。死に対してご自身が勝利されました。
神・キリストについて正しい知識を持たない人たち(:34)は言うでしょう。キリストがよみがえられたと言うが、それは2000年前に起こったイエスの奇跡のひとつ、不思議な出来事なのだろうか。そんな非常識なおとぎ話は私には信じられない。それが私に何の関係があるのか。
知ってください。
キリストの復活は、ここにいる私の人生に深い関係のある「死」、私の「死」に対する勝利なのです。
キリストの十字架は、ここにいる私の罪の赦しのためであり、キリストの復活は、ここにいる私の死に対する勝利のためであります。
キリストは私の救いのために、十字架で死んで、よみがえられました。
復活とはなんでしょうか。
復活は単に息を吹き返すのではない。朽ちないものによみがえるのであります。それは、罪とは無縁のからだです。決して死ぬことのない(死は罪に対する神のさばきであるから)からだによみがえります。
死に対する私たちの備え(終活)は、
多くの人々の願いは、苦しまないでぽっくり逝きたい、家族に囲まれて死にたい、畳の上で死にたい、自宅で死にたい、ひっそりと誰にも知られずに逝きたい、葬式代は準備しておきたい、というものでしょうか。しかし、苦しまないで死ぬこと、親しい者に囲まれて死ぬこと、穏やかに死を迎えることが決して死の解決ではありません。
人間に解決しなければならない二つの事があります。それは、死の問題と罪の問題です。
「彼の罪は取り除かれ、彼女の死の問題は解決している」
私達キリスト者の生涯が、総括して(葬儀の際など)そのように語られるものでありたいです。
* 昨年の11月に、K姉が召天されました。11月10日にT病院の病室で洗礼を受けられ、11月19日に天に召されました。聖書の約束の通りに、イエスに迎えられました。洗礼を受けられ、喜びに輝いておられた彼女の姿を忘れられません。
牧師生活31年間で、多くの方々を天国へお送りしました。
「ゆりかごから墓場まで」は、イギリスの社会福祉のスローガンです。しかし、キリスト教会のスローガンは、「ゆりかごから天国まで」であります。教会の使命は、キリストにある救いを手渡すこと、そして、しっかりと天の御国へと見送ることです。地上での信仰の生涯を走り抜き、天の御国の門を通るその時まで。
「死は勝利にのまれた」
知って下さい。それほど遠い未来ではない。私たちはその日、よみがえりの日、この御言葉がまさに私の上に成就したのを知ります。
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