8月30日(日)礼拝説教全文

「自分の十字架を負う」 マルコ8:27~38

(並行箇所:マタイ16:13~28、ルカ9:18~27)

本日の箇所は、キリストの生涯の折り返し地点となります、マルコによる福音書では16章の丁度半分に位置します。イエスはその生涯を通して、権威あることばと力ある多くの業(奇跡・しるし)によって、人々にご自分が神の御子であることを示されました。そして、いよいよ、イエスはご自身の最大の使命である十字架へと向かって行かれます。

聖書が(そしてイエスが)私たちに問う、最も重要な質問は、「イエスは誰か?」です。弟子たちは今まで、はっきりと答えることができませんでした。しかし聖書のこの箇所で、「あなたは、キリスト(メシヤ=救い主)です」とペテロが告白します(マタイ16:16では「あなたは、生ける神の御子キリストです」)。

そしてこれ以後弟子たちは、イエスの十字架の道に従って行くことになるのです。信仰告白する者は、イエスと共に苦難を背負う道を進みます。

ところが、ペテロはそれは完璧な素晴らしい信仰告白をしましたが、イエスが十字架の苦難と死の予告をされると、直ちにイエスをいさめようとしました。イエスは厳しくそのペテロの言動を叱責されました。

聖書協会共同訳聖書表題では、「ペテロ、イエスがメシアであると告白する」「イエス、死と復活を予告する」とあります。信仰告白と十字架の苦難の道はひとつであると知ってください。

イエスはどんな病も癒される。悪霊に命じると悪霊は出て行く。嵐を静められる。湖の上を歩かれる。多くの人にパンを分けられる。どんな世の権威にも屈しません。どんな悪意の中にあっても揺るぎません。連戦連勝のこのお方に従うことは、弟子たちにとって意気揚々、鼻高々であったでしょう。素晴らしい神のみわざ、奇跡の連続の中で、イエスに従うことはどんなに大きな喜びだったことでしょう。しかし、今日、問わなければならないのは、私達は癒し、解放、満たしは喜んで受け取りますが、しかし、イエスと共に苦難を背負う覚悟はあるのか、ということです。

イエスは「わたしについて来たいと思うなら」。わたしの後ろに従いたいと願っていますか。そうであるならば、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われます。

「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」とイエスが言われることばは、マタイ、マルコ、ルカによる福音書にあります。

その中で「自分の十字架を負う」の意味が、文脈の中で2通りに分かれます。

ひとつは、ペテロの告白、苦難の予告の後に、本日の並行箇所となります。もうひとつは、キリストの弟子(ふさわしい者)になるために背負う十字架です。いのちがけの信仰告白であり、キリストを第一(優先順位)とする信仰告白です。

ルカによる福音書だけは、自分を捨て、自分の十字架を負ってのことばの中に「日々」と言われています。

この御言、イエスの招きは、私達の信仰生活の節目・要(かなめ)のような言葉であり、絶えず確認しておきたい内容です。

① 誰でもわたしについて来たいと思うなら

あなたは、誰に、何に従って生きていますか。あなたは、真剣に、真実に、心から、イエスについて行きたいと思っていますか。

② 自分を捨て

神のために、隣人のために、自分を捨てる覚悟はありますか。自分を捨てるのは、自分の夢や、やりたいことを無理して捨てるのではありません。自分を捨てるには痛みを伴います。しかし、我慢して、無理をして捨てるのではない。私のために命を捨てて下さったイエスの十字架の前で、自己中心、自我から解放され、自分を捨てることができます。自分を捨てる場所は、いつもキリストの十字架です。

③ 自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい

主イエスに従うために 自分の十字架を背負う覚悟はありますか。苦難という意味での自分の十字架を負わないで、イエスに従う道もあるかもしれません。

自分の十字架の3つの意味

1、自分の十字架は苦難 

十字架を背負うのには、確かに苦しみが伴います。しかし、イエスと共に背負う十字架の喜びはそれに優ります。

2、自分の十字架は救い 

わたしは主イエスの十字架の贖いによって罪赦され、救われました!私の救いの出来事、経験を証詞する。福音を恥としない。イエスの十字架と復活の栄光を升の下に置かない。自分がキリスト者であることを隠さない。福音のために命をかけて、殉教の覚悟をもって宣教していきます。

3、自分の十字架は神の使命 

人の救いのために、自らを犠牲としても生きます。自己中心な生き方を捨てて、私に対する神の使命に生きます。(神の使命に生きないで、自分の生き方に生きるクリスチャンの道もあるかもしれません)神の使命に喜びをもって生きます。

「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」。まさに、それは主イエス・キリストご自身の姿です。キリストに従う者は、キリストの道を進みます。キリストが私たちのために、ご自身を捨てて下さった。命までも捨てて下さいました。私達は、キリストのために何を捨てていると言うのでしょうか。

私達はさまざまな祝福を得るために神を信じてはいます。しかし、神のために何を捨てているでしょうか。

キリストの徹底した自己犠牲。それに対して、私達の自己犠牲とは何でしょうか。

神はそのひとり子をお与えになった程に、主イエスはご自身の命を与える程に、私たちを、あなたを愛して下さいました。私達は、神のために何を捧げるのでしょうか。

イエスは私たちが無理をして捨てることは望んでおられない。喜んで捨てることを望んでおられます。なぜなら、私達は既に、キリストの十字架の贖いによって、永遠の命、救いを持っているからです。

今、聖霊によって確かめましょう。私の人生は、自分の十字架をしっかりと、日々背負って、イエスに従うものである、と。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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