8月23日(日)礼拝説教全文

「はっきりと見えるようになって」 マルコ8:22~26   

イエスが生まれる約700年前、イザヤは預言の中で、救い主(キリスト)が来られるとき、そのお方によって、「目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足なえは鹿のように跳び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」と語りました(イザヤ35章5~6)。

以前礼拝において、耳が聞こえず、口のきけない男の癒しと解放の記事を読みました。

本日は、目の見えない者の癒しの記事を読みます。目の見えない者の目が見えるようになる。それが成されるのは「救い主」のしるしです。

はじめに、本日の記事を、マルコ7章の耳が聞こえず、口のきけない男の記事と比較してみたいと思います。


マルコ7:31~37               マルコ8:22~26

イエスはデカポリス地方のガリラヤ湖に到着して イエスと弟子たちはベツサイダに到着し

人々は耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て 人々が目の見えない人を連れて来て

彼の上に手を置いて下さるように願った       触ってくださるように願った

そこでイエスは群衆の中から、           イエスは盲人の手を取って

その人だけを連れ出し、              村の外に連れて行かれた

その両耳に指を差し入れ、             その両眼に唾をつけ

そしてつばきをして、彼の舌に触られた       両手を彼に当ててやって、

                       もう一度、彼の両眼に両手を当てられた

誰にも言ってはならないと言われた         村に入って行かないように言われた


目の見えない人のイエスの癒しの記事は、

マタイ9:27~31「二人の盲人のいやし」。マタイ12:22「目が見えず、口のきけない人の癒し」。

☆マタイ20:29~34「エリコを出て、二人の盲人のいやし」。 ☆マルコ10:46~52「エリコを出て、盲人バルテマイのいやし」。 マルコ8:22~26「ベツサイダでの盲人の癒し」。

☆ルカ18:35~43「エリコ途上で、盲人のいやし」。

ヨハネ9:1~41「エルサレムで、生まれつきの盲人のいやし『シロアムの池へ行って洗いなさい』」。

(☆箇所は、並行記事)

目が見えないとは、闇に閉ざされた世界です。その暗闇の中に神が光を与えてくださる。闇の中に輝く光はイエスであり、目の見えない者の目が開かれるというイエスのみわざは、肉体の目が見えるようになること以外に、イエスの力強いメッセージ性があります。私たちの人生の暗闇に光を与える方こそが救い主です。

太陽の光ではなく、神御自身のみ光によって、見えないものを見えるようにされるというものです。

先週の礼拝で「わからないのですか 悟らないのですか 心が堅く閉じているのですか。見えないのですか 聞こえないのですか 覚えていないのですか。」(:17~18)とおっしゃったイエスの「見えないのですか」は単に身体の目が見えないことを言ってはいません。「見える」ことは、イエスが私たちに願っておられることです。福音を信じて、救われて、救い主イエスによって、「新しい世界に目が開かれる」ことを示唆しています。

それは、暗闇から光へ、死から命へ、神なき世界から神の支配される世界へ、と開かれます。

世界は、人は、そして私は神によって造られたものであり、神のご支配の領域の外では何事も起こらない。そして、イエスは今も生きておられて、イエスが私の人生を共に歩んで下さるという神が支配される世界です。

神は聖書を通して、みこころを私に語られて、神は私を、世界を愛して下さっています。

この目の見えない者の目が、イエスによって開かれる記事は特徴的です。

一度目、イエスがつばきをつけて、両手を当てられた時 「何か見えるか」と尋ねられ、すると彼は見えるようになって「人が見えます。木のようですが歩いているのが見えます」と答えています。ぼんやりと見えているということです。私は視力が0.1(しか)ありませんので、めがねをはずせば、丁度このような状態になります。「前に木のようなものが見えます」。

そして、ここが特徴的なところですが「それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた」というものです。一度目はうまくいかなかったのか?見えるようにはなったが、ぼんやりしているのは不完全だったのか?今までにはないこと。もう一度というのは、やり直しなのか?いや、そうではないでしょう。

「そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。」とあります。完全な癒しです。

はっきりとしていますことは、イエスは不完全な癒しは成されないお方です。完全に癒されます。天国には欠けているものはありません。しかし一度目、見えないものが見えるようになったが、ぼんやりとしています。そして二度目、すっかり良くなってはっきり見えるようになりました。

目の見えない者が見えるようになる、これは様々な角度から考えられる、私たちへの強いメッセージであり、救い主の癒しと解放です。

見えてはいる、開いてはいるがぼんやりとしている。なんとなくわかっているがはっきりとしていない。このような信仰者(「まだ悟らないのですか」とイエスから言われる者)が私たちではないでしょうか。

エペソ1:17~19から

父なる神が、神を知るための知恵と啓示の 御霊によって はっきりと見えるようにして下さるとあります。

① 救われているがその使命がはっきりしない。だから、救われてはいるが力強い信仰生活が歩めない

② 天国への望みはあるが、期待と喜びがない

③ 神が全能のお方だと知っているが、自分の人生に力強く働いているのかわからない

救われてはいるが確信がない。神様は信じてはいるが、実感がない。力強い臨在がない

今年7月19日の創立記念礼拝で、マタイ16章から「告白する教会」と題して、ペテロの信仰告白を読みました。「あなたこそ、生ける神の御子、キリスト(救い主)です。」

マルコによる福音書では、この目の見えない人の癒しの後に、弟子たちの信仰告白の記事があります。悟らない弟子たちではなく、はっきりと生ける神の御子キリスト・イエスを告白しています。そして、イエスは御自身の十字架への道を弟子たちに告げられます。

見えなければいけないのは何でしょうか。

私の罪の為に十字架で命を捨ててくださった、そのイエスの限りない愛。生けるイエスの背中ではないでしょうか。私たちはこのお方のうしろに従っていく者たちです。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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