8月16日(日)礼拝説教全文
「まだ悟らないのですか」 マルコ8:1~21 ―パンを求めるか、イエスを求めるのか―
(並行箇所:マタイ15:32~39、参照:6:34~44)
イエスの生涯の中で、群衆にパンと魚を分け与えた出来事が二度記録されています。5千人の給食(ベツサイダ地方)と、4千人の給食(デカポリス地方)で、場所も違う別々の記事です。
この二つを比較してみますと、マルコ6章34~44の5千人の給食では、5つのパンと2匹の魚、パンの残りが12のかごにいっぱいになったとあり、全ての福音書にこの並行記事があります。そして、マルコ8章1~9の4千人の給食では、7つのパンと少しの魚、パンの残りが7つのかごにいっぱいになったとあり、マタイの福音書にこの並行記事があります。二度目の時、「三日もイエスと一緒にいて、食べる物を持っていない(:1)」のですから、当時の人々の貧しさがどれほどのものであったかが想像できます。
『5千人の給食』の出来事の後の弟子たちについて、「彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心は固く閉じていたからである。」(6:52)と書かれています。素晴らしい神の御業と、弟子たちの悟ることのできない鈍さとの明暗があります。『4千人の給食』の記事の後も、イエスは弟子たちに対して「まだ、わからないのですか。悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。」(8:17~18)と言われました。ここにも、素晴らしい神の御業と、弟子たちの悟らない鈍さとの明暗があります。
いずれも、「悟ることのできなかった主の弟子たち」でした。「パンのしるし」を通してイエスは何を悟って欲しかったのでしょう。イエスは、今も、私たちが見て、聞いて、思い出して、心を開いて悟ることを求めておられます。
イエスは、私たちの生活、暮らしのために、パン(食物)が必要であることをご存じであり、満ち足りるように与えてくださるお方です。私たちも経験し、感謝しましょう。この給食の記事を通しても、神が今も私たちに必要な日々の糧を与えてくださると信じます。しかし、この「パンのしるし」のイエスの真意(悟るべきこと)は、人々がパンを求めて、神からパンが与えられることなのでしょうか。私たちは、日々の生活において、パンに限らず、様々な私たちの必要を神に求める者です。
5千人、4千人の給食の後に、パリサイ人(当時の宗教的指導者)がイエスを訪ねます。イエスの敵対者は、この様な大きな出来事を放ってはおけないからです。
パリサイ人はイエスをためすために、議論をしかけて、天からのしるしを求め、詰め寄ります。
イエスは深く嘆息して「今の時代には、しるしは絶対に与えられない。」と答えられます。
天からのしるしとは、新改訳聖書の注には、天からの証拠としての奇跡とありますが、パンを与えられたイエスの奇跡と対比して、旧約聖書の、モーセの時代、天から下ったパン(マナ)の奇跡のようなしるしが思い起こされます。
「しるしは絶対に与えられない」。イエスはパリサイ人の求めをはっきりと拒否・否定しています。
パリサイ人はしるしを求めたとありますが、5千人の給食も4千人の給食も、群衆がパンをイエスに求めたのでしょうか。違います。イエスが群衆をかわいそうに思って与えてくださったのです。私たちに全てのものが神によって与えられる根拠は、私たちの救い主イエスが憐み深い愛のお方であることにあります。
イエス一行が再び舟に乗って向こう岸、デカポリス(ガリラヤ湖南東)からダルマヌタ(ガリラヤ湖西北)に渡ろうとされた時に、弟子たちはパンを用意するのを忘れました。一つのパンしかありませんでした。そのときイエスは「パリサイ人、ヘロデ(マタイによる福音書ではサドカイ人)のパン種に警戒しなさい。」と弟子たちに命じます。弟子たちはパンがないことをイエスが言われたのだと思い、議論を始めました。全くイエスの言われたことに対して、見当違いの議論です。
イエスの成された「パンのしるし」を知る上で、ここでイエスが言われた、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種について考えてみたいと思います。
パン種とは、その「教え」のことだとマタイによる福音書では説明されています。(マタイ16:12)
パリサイ人のパン種(教え)とは、
聖書の戒めを自分たちの都合の良いように解釈し、様々な解釈・形式・作法(口伝律法)を加え、それを文字通り守ることを人々に押し付け、神の義とする律法主義です。特に律法を守らない民、律法とは無縁の異邦人を断罪する愛なき裁き人になります。イエスはその生涯の中で、パリサイ人を最も厳しく非難しています。
律法主義は、一見、聖書的で信仰的な生き方でもあるので間違いやすいのです。聖書を学び、神の前に正しく生きたいと願うキリスト者も陥りやすい。神に従っているというより、文字に従っているような人、神の義ではなく、むしろ自分の義に固執する人のことです。聖書は確かによく知っている。学んでいるかも知れない。しかし、謙虚さに欠け、愛に欠け、喜びに欠け、主と交わり、主を知るという霊性に欠けているのです。
ヘロデ(マタイによる福音書ではサドカイ人)のパン種(教え)とは、
ヘロデは、以前説教で聞いたように、ヘロデ・アンティパスのことで、バプテスマのヨハネの殺害者であり、欲望と権力、地位保身にまみれた人です。マタイではサドカイ人のパン種となっていますが、いずれも現実主義で日和見主義的な人。目に見えるものが全て。死者の復活もない。奇跡もない。今の自分の生活・地位・安全が守られればそれで良い。求めるのは、お金、豊かな生活、贅沢、権力や地位の安泰。処世に長けて、政治的な力も軍事的な力も持っているかも知れない。しかし、どこまでも人間中心、人の知恵・知識中心、自分中心で、決して神の下に自らを置くことをしません。
* パン種は小さな種であるが、パン全体を膨らませます。私たちの心や内に、このパン種が入ると、最初は小さなものであっても、それは全体を大きく膨らませます。イエスはこれに警戒しなさいと言われます。
主イエスの教えは、
律法の文字を守り、自分の義を追求し、他者を排斥するパリサイ人の教えでもなく、また、復活も永遠の命も無智として、目に見えるものしか信用しないヘロデ(サドカイ人)の教えでもない。
イエスの教えは、神の国、神の義を第一とすることであり、イエスが私の人生に共にいて下さるという福音である。臨在のイエスゆえの義の勝利、臨在のイエスが中心にいてくださる生活である。相も変わらず、弱い、土の器の私ではあるが、大事なのは、私の罪のために十字架で死に、三日目によみがえられ、今も生きておられるイエスが、今、私と共にいてくださるということです。これが命のパンをいただいて生きる者の心・信条です。
第一コリント4:20 「神の国はことば(文字)ではなく、力(臨在のイエス)です。」
私達はいつも現実的な、理性的な、常識的な、目に見えるものだけに目を向けているのではないでしょうか。そこに主がおられることを、いつも悟らない。コロナの嵐の中にも、そこに主がおられることを悟らない。
しかし、全ての課題を解決し、真に人をあふれるほどに満たされるのは、命のパンであるイエスであります。
天からのパン、命のパン、それはイエスご自身です。
私たちが、心を開いて、へりくだって、求めて、神から頂くべきパンであります。
「私が命のパンです。」「誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:48、51)
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