9月20日(日)礼拝説教全文
「信じます。不信仰な私をお助け下さい」マルコ9:14~29
(並行箇所 マタイ17:14~19 ルカ9:37~42)
山の上での「イエスの変貌」は3人の弟子たちにとって、素晴らしい出来事でした。まるで天国にいるような、そして、圧倒的な主の栄光のお姿を見た夢のような素晴らしい時間でした。しかし、山から降りてみれば、下の世界は一転して問題が山積していました。
私達も、教会で大いなる主の臨在と栄光に触れても、その場所から一歩外に出ると、そこはまさに、問題・課題が山積みの世界。そこにあるのは「不信仰との戦い」の場ではないでしょうか。
イエスが山から下りてみると、弟子たちが律法学者たちと論じ合っていました。そのまわりを群衆が囲んでいました。何を論じ合っていたのでしょうか。
「おしの霊」に憑かれて、倒れて泡を吹き、歯ぎしりしてからだをこわばらせる子供をイエスのもとへ連れて来た父親。しかし、イエスは不在でした。癒しをいろいろ試しても、何もできない弟子たち。どうしていつものように治して、悪しき霊を追い出すことができないのか、焦りと落胆がありました。
一方、その弟子たちの様子を見て、ただ議論だけを仕掛けてくる律法学者たちがいました。
どちらも苦しむ人の前で無力な、イエスの弟子たちと律法学者たちでした。
そこにイエスが戻って来られました。
弟子たちも、群衆もイエスの戻って来られるのを心から待っていたことでしょう。
1、 弟子たちの不信仰
事情を聞いて、イエスは言われます、「ああ、不信仰な世だ」(:19)。何をイエスはがっかりされたのでしょう。イエスの言われる「不信仰」とは何でしょう。
弟子たちは、以前、イエスの権威をいただいて、村々、町々に派遣されて、病を癒し、悪霊を追い出し、神のみわざを行ってきました。以前に出来たことは、今もイエスが傍にいなくても自分たちに出来ると思っていました。ところが、何もできませんでした。そして果てには、子供と父親を置き去りにして、律法学者と論争していたのです。イエスはその様子をご覧になりました。
どうして弟子たちは子供を癒すことが出来なかったのでしょう。
弟子たちは密かにイエスに質問します、「どうしてでしょう、私たちには追い出せなかったのですが」(:28)。この質問には、今回もできると思っていたのですが、という思いが含まれています。イエスは「この種のものは、祈り(と断食)によらなければ、何によっても追い出せるものではありません」(:29)と答えておられます。
「どうしてでしょう。病人に手を置いて祈ったのに病が癒されません。」「どうしてでしょう。イエスの名によって命じたのに、悪霊は出ていきません。」彼らに落胆と不信仰な思いが湧き上がっていました。
どうして出来ないのか。人には出来ないのです。全ての力は神にあり、人にはありません。
「祈り(と断食)によらなければ、何によっても・・・できるものではありません」。「何によっても」という言葉から、イエスの弟子たちがこの子供の解放のためにとった方法は、「祈り(と断食)以外の何か」であったことがわかります。そしてその何かとは、信仰によるものではなかったことがわかります。
「信仰でないもの(不信仰)」とは何でしょう。自分の知識、経験、自分に属するものではないでしょうか。人はどこまで行っても自分、自己中心です。自分を捨てることができません。神の働きは、自分で何かが出来ると思った瞬間から転落していきます。本当にそういう意味では「不信仰との闘い」は厳しいものです。
「祈りと断食による」とは、あなたは一切他の何かを頼みとせず、一心に神にのみ望みをおいて、神に願ったのですか、と問われる内容です。混ざりものの無い心です。ただ、主のみを信じたのか。
祈って癒される現実と、祈っても癒されてはいない現実が、私たちの目の前にあります。結果はすぐには出ないものでもあります。あるいは「あなたの信仰が足りないから癒されない、悪霊は出ていかない」と悪魔が訴えることがあります。この言葉にも、同じく神に信頼していない不信仰があります。私の何かが、私の信仰が不足しているから、などと、たとえ、私の信仰であっても、私の何かを拠り所とするのは実は不信仰なのです。人間の強い信仰の徳によって、病は癒されるのではありません。
では、信仰とはどのようなものなのでしょうか。私は虫に等しいものです。ただ、あなたに憐みを求めます。もちろん卑下することではありません。私たちは神の目に高価で尊い存在ですから。ただ、初心(何の経験も力も無くただ神に信頼する、我はおさなご、という意識)を忘れてはならない。神に奉げる働きは、慣れた後にできるものではない。説教もそう。賛美もそう。全ての奉仕がそう。その都度、毎回、毎回、主の助けを仰ぎつつ向かい、当たるべきものです。
2、父親の不信仰
父親は「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい」(:22)とイエスに願います。体裁の良い言葉です。イエスの弟子たちにもできなかったので、無理は言えない。息子は幼い時から今まで治ることはなかった。それは難しく、たやすく治るとは考えられない。この父親は、目の前の厳しい現実にイエスを過小評価していたかも知れない。また、何の関係もなかったお方に虫のいいお願いをすることを謙遜して、そのようなかしこまった表現をしたのかも知れない。
これまで、マルコの福音書を読んできて、イエスに求めた人はどうだったでしょう。しばしば私達も取り繕った祈りを主にする。しかし、赤裸々に神に訴える祈りこそ真実であり、神の求めておられる祈りではないでしょうか。詩篇の歌しかり。心を神に注ぎ出し、人に向かった祈りではなく、神に向かった祈り。
イエスは言われます「できるものなら、と言うのですか。信じる者には、どんなこともできるのです」。
以前に、「恐れないで、ただ信じていなさい」(5:36)と、会堂司ヤイロに娘の死の知らせが届いた時、イエスが彼に向かって言われたことばが思い起こされます。
神には出来ないことは何もない。私たちはただイエスを信じておれば良いのです。世の人々はそれを愚かと言うかも知れない。しかし、イエスを信じる者は、イエスが救ってくださいます。
3、不信仰を認める信仰
するとすぐに、その子の父親は叫んで(体裁ではない。構わず)言います「信じます。不信仰な私をお助け下さい」(:34)。それでいいのです。
イエスは父親の信仰を引き出されます。そして、彼の不思議なイエスへの応答の言葉、「信じます。不信仰な私をお助け下さい」は、矛盾しているような告白です。人は、自分の不信仰を知ることによって、信仰という神の恵みを受けることができます。「信じます」は精一杯の告白です。そして「信仰のない私を助けてください」と言って自分自身の不信仰を認めるのです。これこそ、私たちのなすべき祈りではないでしょうか。自分の弱さ、不信仰を認めること。そこに神の力が働きます。神は、悔いた砕かれた心を、ご自身の憐みをもって受け入れて下さいます。(詩51:17)
自分にある何か、信念の堅さや、信心深さ、頑張りは信仰ではない。私は何も持っていない者、弱い者、不信仰の弱い者です。だから、私は祈ります。すべてはあなたから来るのです。強さではなく、弱さの中で私たちはイエスに出会い、そしてイエスから救いをいただくのです。
「信じます。不信仰な私をお助け下さい」(:24)と、主イエスに祈りをもって切に叫びましょう。
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