9月27日(日)礼拝説教全文
「イエスがそうされたように」 マルコ9:30~37
(並行箇所:マタイ17:22~18:5、ルカ9:43~48)
(参照:マルコ8:31)
30~32節は、聖書協会共同訳の表題には、「再び自分の死と復活を予告する」とありますように、苦難と復活の二度目の予告であります。(一度目は8:31、ピリポカイザリヤでペテロの信仰告白の後。)ペテロの信仰告白を境として、以後、弟子たちが理解できない中にも、イエスの生涯が十字架に向かっていることがわかります。
「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたイエスのことばを心に留めましょう。
イエスは人目を避けて、ガリラヤを通ってカペナウムに向かわれます。イエスが苦難を受ける時はまだ来ていません。
33~37節は、同じく聖書協会共同訳の表題では、「いちばん偉い者」とあります。弟子たちは道々、誰が一番偉いかと論じ合っています。イエスが「何を論じ合っていたのか」と尋ねられると、彼らは自分たちのしていたことを恥じて黙ってしまいます。とかく人は評価されたい、偉くなりたいと願っています。この世の価値ある立場は、偉くなって、人の上に立つことです。
しかしイエスは、「だれでも人の先に立ちたいのなら、みなのしんがりとなり、仕える者となりなさい」、と言われます。
① しんがりとなりなさい
一番後ろの人とは誰でしょうか。
歩みの遅い者、小さい者、働きのない者、世間では後ろに追いやられる者、厄介者、未熟な者、弱い者ではないでしょうか。その更に後ろを歩き、その者を支えなさいと言われます。小さい者、弱い者を憐れまない指導者を、イエスは最も叱責されます。
* 行進、山登りの時に、一番足の速い、確実に体力のあるものが一番後ろとなります。
一番後ろから二番目でもいけない。一番うしろ。それは誰ひとり脱落しないためです。
この集団の目的は、早く目的地に到達することではなく、全員が到達することです。
イエスの言われる偉い人は 最後まで弱い者を支えます。私は支えます。イエスがそうされたように。
人は偉くなると、人に仕えてもらうことに慣れてしまいます。(誰が一番偉いかと論じ合っていた弟子たちのように。)
② 仕える者となりなさい
「仕える者」=ディアコノス(ギリシア語)は、教会の執事・役員を示します。その本来の意味は仕える者です。「仕える者」は聖書の中では、給仕、足を洗う者、しもべや、卑しい仕事をする者が挙げられます。あえて最も人の嫌がる仕事をする者でありたいです。 *尾花晃牧師(横浜教会牧師) トイレ掃除を晩年までされた。
* 仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい。洗足の記事(ヨハネ13章)を通し、手本を示されたイエスを見ます。私は仕えます。イエスがそうされたように。
人は偉くなると、小さい働きや、人の嫌がる働きをしなくなります。(足を洗う仕事を率先して引き受けなかった弟子たちのように。)
③ 受け入れなさい
イエスは幼子を真ん中に立たせ、抱き寄せて、「わたしの名のゆえに、このような幼子たちのひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです」と言われます。小さい者を受け入れるのは、わたしを受け入れること。又、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方(父なる神)を受け入れることです、とイエスは言われます。
幼子のように小さい者とは誰なのでしょうか。文字通り「赤ちゃん、幼児、子供」しかりです。教会は子供たちを大切にします。
ユダヤの社会では、特に憐みをかけるべき社会的弱者について三者を示しています。孤児、身寄りのない寡婦、在留異国人です(出エジプト22:21~22、エレミヤ7:6~7)。
* 旅人をもてなす(在留異国人、日本在住の外国人)。
イエスの時代にあっては、社会的弱者は、女性・子供、取税人・罪人・遊女、汚れた病といわれる病人。(又、別の意味ではユダヤ社会から拒絶されていた異邦人)
イエスはそのような人たちと交わりを持ち、食事をされました。(イエスは異邦人との交わりを拒絶はしておられませんが、神様のご計画の中にあって、避けておられます。)
受け入れるとは、人生を共に生きる者として歓迎する、迎えることを意味します。 *食事を共にする
私は受け入れます。主イエスがそうされたように。
人は偉くなると貧しい者や、身分の低い者との付き合いを避けます。(子供を追いやろうとした弟子たちのように)
何とイエスのなされたことは、この世の価値観と逆のものでしょうか。
しんがりとなることも、仕えることも、受け入れることも、簡単なことではありません。
時には、それが苦痛になることもあるかも知れません。 * ホームレスの人、刑務所から出てきた人
しかし、喜んでしんがりとなり、仕え、受け入れる道があります。イエスの歩まれた道であり、十字架の道です。イエスが私の為にそうされたのだから、私もそのように〈主に倣う者に〉されているのだから。
イエスの生涯を見、イエスの言われたおことばに従って行く時に、主と共に歩む喜びがあります。私の生き方ではなく、主の生き方があります。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28)。それは、十字架の道です。
あなたにとって仕える人は誰でしょう。あなたにとって受け入れる人とは誰でしょう。
イエスは、道徳を教えているのではありません。少々謙遜そうな人になりなさい、というのではありません。神の愛を教えておられます。
イエスがしてくださった事に気づき、イエスに感謝し、イエスのように生きる。
さあ、あなたの番です。身近な人に仕え、自分の場所、囲いを出て、小さい者を受け入れましょう。
神を愛する者は、主にある兄弟を愛します(第一ヨハネ4:20~21)。
最後にマザー・テレサの言葉を読みます。
「あなたは、あなたであればいい」 マザー・テレサの言葉
人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい。
人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人にやさしくしなさい。
成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。それでも成功しなさい。
正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。それでも正直に誠実でいなさい。
歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。それでも作り続けなさい。
心を穏やかにし、幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。それでも幸福でいなさい。
今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。それでも善を行い続けなさい。
持っている一番いいものを分け与えても、決して十分ではないでしょう。それでも一番いいものを分け与えなさい。
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