10月4日(日)礼拝説教全文
「寛容・自由・平和」 マルコ9:38~50
(並行箇所:ルカ9:49~50)(並行箇所:マタイ18:6~9、ルカ17:1~2)
本日はこの聖書の箇所から3つの勧告を読みます。
イエスの説教は、確かに先の記事と連続して同じ場所で語られています。しかし、イエス語録集のようなものがあって、(関連性のある)短い内容のイエスのことばが連続して語られているように表現されているという立場で見る学者たちもいます。
① 9:38~41 イエスの寛容とは何か (並行箇所:ルカ9:49~50)
聖書協会共同訳聖書の見出し「逆らわない者は味方」
イエスの弟子ヨハネは、自分たちの仲間でない者がイエスの名によって悪霊を追い出しているのを見て、やめさせた、とイエスに言いました。他の弟子たちも、イエスの働きは自分たちだけに託されていて、イエスに従わない者はすべきでない、と思っていたのでしょう。しかし、イエスは「やめさせてはならない」と言われます。イエスに従わない者がイエスの名によって悪霊を追い出すというのも不思議な話ですが、イエスは神の働きに参加する者は味方である、と言われます。「広い心を持ちなさい。間違った仲間意識は時に争いをもたらします。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの仲間です」と。
ともすると、教会では信者と未信者を、クリスチャンとそうでない人を区別します。秩序は必要ですが、教会の奉仕はクリスチャンだけがするものだと考える人が多いようです。しかし、キリスト者でなくても、神の働きに加わる者に神は報いて下さいます。
* 例えば、東京仲良し教会はユニークな教会で、もちろん教会員の方々は良く教会の奉仕をしますが、多くのクリスチャンでない方々も奉仕をします。駅前や公園で一緒にトラクト配布をします。食材を運び、食事作りと配給の働きをしてくれます。良く新しい方々を誘って教会に来られます。その中のある方から、「私はクリスチャンではないですが、私達は教会の役に立って、神様は喜んで下さっていますか」と尋ねられた事があります。勿論神様は喜んで下さり、彼らに報いて下さいます。
* また、クリスチャン以外の人が青年のワーシップの奏楽者に加わったり、聖歌隊に加わったりすると、時に、「信仰のない人が本当に神様を賛美できるはずがありません。彼らを入れるべきではない」と言うクリスチャンの方がおられます。しかし、イエスは「やめさせてはならない」と言われます。彼らは決して神様からの報いを失う事はありません。
教会の働きに、クリスチャン以外の人が参加することについて。又、クリスチャンだけが神の働きをするのに相応しいと考える特権意識と、排他的な聖について。
クリスチャンの間違った仲間意識に注意しなければなりません。ユダヤ人が全世界の祝福の基とならずに、人々を祝福から締め出した失敗があります。確かに世の人々に迎合したり、妥協したりはいけないと思います。繰り返し言いますが、教会の秩序は必要です。聖餐(パンとぶどう酒)に与かるのは洗礼を受けたクリスチャンのみです(勿論イエスは全ての人が救われて、聖餐に与かることを願っておられます)。しかし、クリスチャンが、何か特権意識を持っていたとするならば、このイエスのことばに耳を傾けるべきです。
② 9:42~48 イエスの自由とは何か (並行箇所:マタイ18:6~9、ルカ17:1~2)
私たちはキリストにあって自由です。何をしても、どこへ行っても、何を見ても自由です。何を食べようが、何を飲もうが、どこへ出かけようが、何を見ても自由です(もちろん法律で禁じられていることは別ですが)。誰かから、誰かの価値観によって責められるものでもありません。しかし、人につまずきを与えないことは私たちの重要課題です。誰もゲヘナ(滅び、地獄)に落ちてはなりません。たとえ、手・足・目を犠牲にしても(3つとも同様の表現で言われている)滅んではなりません。ゲヘナ(地獄)では彼らを喰らう「うじ」は尽きることがなく、その火は消えることがない、とイエスは言われます(:48)。神の国に入るのは、どんなに大切に思えるものをも投げ捨てても得るべき最も価値あるものです。
人をつまずかせないために選ぶ自由
* 私が礼拝でスーツを夏でも着る理由。酒もたばこもたしまない理由。困った人に一度援助をする理由。それは、自分の好きなものを持ったり、食べたり、自分の好きなことをするのが自由ではなく、自分の自由を、隣人をつまずかせないために、愛のために、「捨てる自由」が私にあるからです。自由とは本来縛られていないことです。自分の欲求・自分の価値観と、隣人をつまずかせないこととを秤(はかり)に掛け、隣人をつまずかせない自由を選択しましょう。「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」というみことばがあります。
③ 9:49~50 イエスの平和とは何か
「人は皆、火で塩気を付けられなければならない」とイエスは言われます。
火は、聖霊を意味します。聖霊は私たちをきよめます。
塩には、腐敗を防ぐもの、きよめるもの、又、味付けをするもの、和合・平和の意味があります。
自分自身の内に塩気を保つことと、隣人・社会に向けて塩気を保つことです。
塩にしか、塩の働きはできません。又、キリスト者にしか、キリストの愛を隣人に示すことはできません。キリスト者にしかできない効き目、働きがあります。それは、キリストを、キリストの愛を知らせることです。
キリストを宣教することは、和らぎ(平和・平安)を与え、罪の赦しときよめを与えます。
「塩に塩味がなくなったら、何によって塩気をつけることができるでしょう。」(:50)
キリスト者に、キリストがなくなって、誰がキリストを伝えられるでしょう。
自分自身の内に火で塩気を保つというのは、聖霊によって、まさに、キリスト者が内にキリストを迎え入れる以外にはありません。
〈応答の祈り〉今日、私の心の王座にイエス様、あなたをお迎えします。今、聖霊を私に満たしてくださって、私の内にキリストがおられることを教えてください。キリストにある寛容、自由、平和を、私の人生に実現して下さい。
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