10月11日(日)礼拝説教全文

「私たちは神の作品 (神を神としてあがめ、感謝せよ)」ローマ1:18~3:20

人間は、猿の子孫か、神に造られた者か。

聖書は、万物が、宇宙も太陽・月・地球も、また、地上の全ての生物、動植物・魚・鳥、そして人間も、神によって造られたと教えています。全ては神の作品であり、私たちも神の作品です。世界は神によって造られました。

私たちは大自然を見て、神の創造の素晴らしさを感じます。

聖書は、神が造られた作品の中で、人を特別に、神のかたちに、神に似せて造られたと教えています。神の造られた全てのものは素晴らしく良いものでしたが、中でも、人は極めて良いものでした。

* 人は猿の子孫ではなく、また、生物として突然沸いて出て進化して存在しているものではない。聖書が示しているように、人は神によって造られたものであるという自己認識は、「生きる意味・目的」を感じて生きるために、人生にとても重要です。なぜなら、造られたものには造られた目的があるからです。人の尊さの基盤となるからです。

しかし、自分自身を見、周りの人を見る時、人は神が造られた極めて良いものでしょうか。

人は素晴らしい、人の歩み(歴史)は素晴らしい、と胸を張って心から言えるでしょうか。

胸を張って言えないとしたら、人の、私の何が問題なのでしょうか。

今日の聖書箇所のローマ人への手紙1:18~3:20は「人間の罪」がテーマになっています。

罪とは何なのか。

人間の罪についての説明1:18~3:20の区分 

人間の罪(1:18~2:16)ユダヤ人の罪(2:17~3:8)人間の罪(3:9~3:20)

聖書では、ユダヤ人以外の人を異邦人と呼んでいます。


啓示: Q どうすれれば私達人間は神を知ることができるか

    A 神がご自身を私達に現して下さったときに私達は神を知ることができる

神は啓示の神であられる 世界を創造された神は、この世界にご自身を豊かに現したもう神です。

旧約の時代

神は異邦人にもユダヤ人にも、自然、歴史(出来事)、人を通して、語りかけられました。⇒一般啓示

ユダヤ人には、直接神が語りかけられました。また、聖書を通して語られました。⇒特殊啓示(特別啓示)

ユダヤ人は神に直接語りかけられた者として、それを異邦人に知らせる使命がありました。

新約の時代(今)

ユダヤ人にも異邦人(私たち)にも、〈一般啓示〉と共に、聖書を通し、イエス・キリストを通して神が人に語って下さっています〈特殊啓示〉(特別啓示)。

神は、創造と摂理の御業によってご自身を現されます。自然を造り、人間を造り、歴史を支配されて。神をはっきりと認めるには至っていませんが、聖書は「神の本性は、はっきりと認められる。弁解の余地はない」と告げています(:20)。

「人間の不敬虔と不正(不義)に対して、神の怒りは天から啓示されている」(:18)

世界を創造された神は、造られた人間の罪に対して無関心なお方ではない。罪に対して罰と裁きを下す、怒りの神です。

人間の罪に対する神の怒りは、自然と歴史を通して絶えず示し続けられている。(例:ノアの洪水、聖書に預言されている終末「世の終わり」)

*黙示録を講解説教している時、「世の終わりについて聞いていると恐ろしくなり、気分が悪くなってきた」、と言われた方がいます。「飢饉があり、地震があり、疫病があり、戦争があり、愛が冷め、偽預言者が現れ…天変地異が起こり…」。 私達は罪に対する神の怒りを侮る者であってはならない。 但し、十字架の故に恐れる必要はないが…。

神に対して不敬虔

偶像礼拝の罪(:21~23)

私達には宗教心というものがある。しかし、生きておられる神を捨てて、死んでいる偶像を礼拝している。万物を造られた神をではなく、人が作った、それぞれに都合の良い神(偶像)を拝んでいる。今や世界中の人々が作られた像を拝んでいる。十戒の最初の2つ、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:3、4)に背いている。

この罪こそが罪の根源であり、これを守らない者は、神に対して不敬虔な者です。

神に対する不敬虔が、罪(ハマルティア)であり、すなわち、的外れな人生 曲がった、方向違いの、迷い出た、本質からはずれた罪の人間の姿なのです。

それぞれの作られたものには、作られたものとしての役割がある。その付加価値がどんなに高価であっても、それ自体は何の役にも立たない。* ある人が死のうとして腕時計が壊れている事に気づいた。時計は作った人に持って行けば直せるが、人はどこに行けば治されるのだろうか。 (聖書は人間のトリセツ「取扱説明書」であると言える。)

神は人をどのように造られたのか。

① 神を愛し、礼拝する者として ② 隣人、世界を愛する者として そして③(自分を愛する者として)

が人の最大の使命・役割である。

* 私達が真の神をほめたたえる時、私達は 人間の本分を十分に機能させて本来の目的を果たしている、という充実感と根源的な喜びを味わうことが出来る。「人は神によってしか埋められない空洞がある」と言われるが、神を賛美する時に神に造られた人としての満足感がある。 

人に対しての不正・不義(何が正しいこと、または、正しくないことなのか)

「欲望のままに生きる」という罪がある(:24)。しかし、他方で、正しく生きようとする良心がある。

人の生きる基準は、あえて正しいか正しくないかではなく、自分にとって心地良いか良くないか、もうかるかもうからないか、得か損か、自己実現できるか出来ないか、楽かしんどいか、楽しいか楽しくないか、便利か不便か、美しいか醜いか…ではないでしょうか。(一年を始める時の願いに、正しく生きることを目標とする人は少ないのでは?)そのような基準の連続で、良心は鈍り、腐って行きます。どんなに成功したと言われる人も然り。

「神について知りうることは、神が明らかにされた。神の本性は、被造物によって知られる」(:19~20)

異邦人には直接神がご自身をお示しになることが無いにしても、「しかし、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、その思いは虚しくなり、その無知な心は暗くなった」(:21)。

かつての私たちも神を神としてあがめず、感謝もしなかった罪深い者でした。

ところが、ユダヤ人も異邦人も、神を神としてあがめ、感謝を捧げ、その思いは喜びに溢れ、その心は神のみ光りにより明るくなったのです。その恵みは、キリスト・イエスによって与えられたのです。

私達は、自分の内にある罪、他者に対する様々な罪(:29~31)を悔い改めると共に、神を神としてあがめず、感謝もしなかった者である事を、神の前に深く悔い改めなければなりません。

そして、そんな罪深い者の罪を赦し、人として回復するために、主イエス・キリストが十字架でその罪を背負い、命を捨ててくださったことを覚えなければなりません。私達が、神を神としてあがめ、心から神に感謝を捧げる人生を送れるように、キリストが私たちを愛し、罪から救うために、十字架の上で、神の怒りを受けて下さいました。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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