11月1日(日)礼拝説教全文
「人にはできないが、神にはできる」-永遠の命を得るために- マルコ10:17~31
(並行個所 マタイ19:16~30、ルカ18:18~30)
聖書協会共同訳の見出しは、「金持ちの男」。
本日の箇所は、並行箇所を読んで比較してみることで、違った角度からこの出来事が良く見えてきます。
聖書は、救いの道・(永遠の)命への道を示しています(ヨハネ20:30~31)。
命にまさるものはありません。死に定められた私たちが、どのようにして死の解決を得ることができるのか。救い(よみがえりの命、永遠の命)は神によるものであって、人が何かをして獲得するのではありません。本日の箇所で、そのことをイエスはひとりの青年に、又、弟子たちに、そして私たちに教えておられます。
イエスのもとに、ひとりの人が尋ねて来ました。
著者によっては、ひとりの人(マルコ)、ひとりの青年(マタイ)、ひとりの役人(ルカ)、となっています。
彼は、意気揚々と自信にあふれてイエスを訪ねて来ました。若くして、地位があり、非常に裕福で、道徳的にも非常にすぐれ、満足した生活を送ってきたと思われる青年です。イエスと同じ位の年齢であったかも知れません。とても礼儀正しい好青年。イエスの弟子になったら、きっと素晴らしい働きをするにちがいない人物であったかも知れません。
青年はイエスに言います。あなたの教えは素晴らしい、あなたは「尊い」「善い」先生です、と。
(そのようにイエスに言う彼も、彼なりに自信があったのだと思います。)
するとイエスは、「尊いお方は神以外におられない」と言われます。それはどういう意味でしょうか。
イエスは御自身が「尊い」と人から言われることを否定されます。
それは、神に目を向けさせるためであり、すなわち、自分の「良さ」ではなく、神の「良さ」「尊さ」に目を向けさせるためです。他人に褒められた時は注意しましょう。いつも私たちは、「良い」お方、すなわち神に隣人の目を向けさせるべきです。 *礼拝の後に「わたしはただの人間です」と宣言した牧師。
栄光は神に。それがイエスの生涯であり、イエスに従う者の歩みです。
青年の質問
「何をすれば永遠の命を得ることができるでしょうか」。永遠の命を得る、救われるためには何をすればよいのか、という問いです。
「永遠の命を得る」ことは、ユダヤ人が求める最大の神の賜物であり、それは、「救いにあずかる」、「天国に入る」、「神に義と認められる」と同義語です。
日本では(日本に限らず)多くの人々には、それが素晴らしいものであることが今一つピンとこない。「永遠の命」を求める日本人はほとんどいない。いや、「永遠の命」は、迷信的な架空のものとして信じようとさえしない。多くの日本人が求め、手に入れたいと願うものは何でしょう。それは、健康、美貌、お金、おいしい物、高価な物、楽しい時間、便利な物、豊かな暮らし、良い仕事、知識、スキル、地位、名声、平和な家庭、等々です。永遠の命、罪からの救い、神に義とされること、救われること、ではありません。
イエスのことばに耳を傾けましょう。「人がたとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)。
この青年は、良い行い(聖書の律法を守ること)によって、永遠の命が得ることができると考えていました。
まず、イエスは青年に「良い方は神おひとりです。戒めを守りなさい」(マタイ)と言われます。そして、モーセの10戒の後半6戒を青年に告げます。
すると、殺したこともない、盗んだこともない、偽証をしたこともない、父と母を敬っている、むさぼったこともない(隣人を愛している(マタイ)、と考えたこの青年は「小さい時からみな守っています」と答えます。その上で、他に何か欠けているもの、足りないものはあるでしょうか(マタイ)とイエスに尋ねます。あなたには欠けたところがない、と言ってもらいたかったのでしょうか。立派な青年です。
イエスは青年を好感のまなざしで見つめ、いつくしんで言われます。「完全になりたいなら(欠けているところを満たしたいと思うなら)、持ち物をみな売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」。イエスから「わたしについて来なさい」」と直接声を掛けられるとは何と幸いな人でしょう。
しかし、今まで意気揚揚としていた青年の顔は、みるみるうちに曇っていきます。青年は悲しみながらイエスの許を去って行きました。何故か。「なぜなら、この人は多くの財産をもっていたからである」と記されています(:22)。青年が「貧しい者」(おさなごの心を持つ者)であったら、イエスのことばに従っていたかも知れません。
「全てを捨てて、主イエスに従いなさい」という命令は、どれほどに高いハードルでしょうか。誰がその命令に応えることができるでしょうか。しかし、イエスに従うことこそが、永遠の命を得る唯一の道です。
なぜイエスはこのようなことを、この青年に求められたのでしょう。
人はたくさんの物を持ちすぎていて、大事なものが埋没してしまっています。
今はものの豊かさ=人の豊かさという時代にあります。確かに富も神様の祝福ではあります。益々、神があなたの経済をも祝福して下さるように願います。
しかし、ものの豊かさは常に人の心を曇らせます。それは、ものの豊かさによって人が天の豊かさを求めなくなってしまうからです。神と富とに兼ね仕えることはできません。 *内村鑑三 「後世への最大の遺産」
何かをして人は救いを得るのではありません。イエスが私の救いのために、私の罪を背負って十字架で死んでくださり、私たちの死に対する勝利を与えるために三日目によみがえってくださいました。イエスが私のために、命を捨てて救いを成し遂げて下さったゆえに、私たちは神からの救いを得るのです。
「金持ちが天国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」とイエスは言われます。誰が救われることができるのでしょう。どれだけ努力して、どれだけ神の戒めを守って、正しく生きようとすれば人は救われるのでしょう。「人にはできません」「しかし、神にはできる」のです、万軍の主の熱心がこれを成し遂げられます(イザヤ9:7)。神が、イエスが私たちを愛し、救うことに熱心であられるゆえに、人は救いを得ることができます。
イエスの弟子ペテロは、弟子たちを代表して、「私たちは何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と言います。それを聞かれたイエスは、「わたしのために持っている物を捨てた者は、それを百倍になって受けます。そして、後の世では、永遠のいのちを受けます」、と答えられました。イエスを受け入れ(得)て、生涯イエスに従い、その結果受け取ることができるものが永遠の命です。
教会は永遠の命を受け取る場所です。そして、永遠の命とは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われるイエスご自身です。
次の聖書の箇所も読みましょう。ヨハネ5:39、ヨハネ17:3。
御子イエスを信じる(受け入れる、受け取る、自分の人生に迎える)者は、ひとりも滅びないで永遠のいのちを得ます(ヨハネ3:16)。
先のものが後になり、後のものが先になる。「永遠の命を得る」ということにおいては、人の働きの多さは関係ありません。それは報酬ではなく、神の恵みだからです。
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