11月22日(日)礼拝説教全文
「受けるよりも、与える幸い」 マルコ10:32~45
並行:(ヤコブとヨハネの願い)マタイ20:17~28
① 聖書協会共同訳見出し【イエス、三度自分の死と復活を予告する】(:32~34)
エルサレムに向かうイエスの決意
エルサレムに自ら先頭に立って上られるイエス。そこには、エルサレムに行こうとされるイエスの今までにない特別な意味の決意が感じ取れます。
そのイエスのいつもと違った様子に、弟子たちも驚き、従う者たちは恐れを覚えます。かつて二度も、ご自身のエルサレムでの苦難と死、復活について予告されていたからです。
そして、もう一度、苦難と死、復活の予告をされます(:32~34)
8章31節、9章31節に続いて三回目の予告です。イエスの三度の予告を比較してみますと、その内容が今回は更に具体的になっていることがわかります。(当時の宗教的指導者に引き渡され、死刑を宣告され、)異邦人の手に引き渡され、嘲られ、唾をかけられ、鞭打たれ、(殺される。そして、三日後に復活する)。
「人の子が来たのは…多くの人のための、贖いの代価として、自分の命を与えるためなのです」(:45)。
イエスがエルサレム(十字架の苦難の場所)に向かわれるのは、私たちにご自身の命を与えるためです。
イエスは、ご自身が何かを得るため、この世の王となるためではなく、却ってしもべとなり、仕え、与えるために尽くされるお方です。
全ての人の罪の贖いの代価としてご自身の命を与えるために、エルサレムへ、十字架へ向かわれる。全てを与えるイエスの生涯があります。
この聖書の記事と重なる聖書の箇所
使徒行伝20章に、エルサレムへ向かう決意を述べるパウロの様子が記されています。彼は自分が捕らえられ、囚人としてローマへ護送され、ローマで殉教の死を遂げる未来が待ち受けていることがわかっていました。彼はその状況でイエスの言葉を引用してエペソ教会の長老たちに告げます。
「主イエスご自身が『受けるより与えるほうが幸い(祝福された者)である』と言われたみことば(精神)を思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(使徒行伝20:35)。「イエスが私のためにご自身の命を、全てを惜しみなく与えて下さったように、そのイエスに倣う私も、イエスのために命を失うことは少しも惜しいとは思いません」(同20:24)。
〈「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」「惜しみしみなく与える人になりなさい。」イエスがそうであられたように、私も・・・。〉
② 聖書協会共同訳見出し【ヤコブとヨハネの願い】(:35~45)
ヤコブとヨハネ(マタイの福音書では彼らの母)が来て、「ひとりを右に、ひとりを左に」とイエスに願いました。
他の十人の弟子たちは、自分たちを出し抜いて、そのような事をイエスに願い出た事に対して腹を立てました。
誰がイエスのそばに座るかでもめていたイエスの弟子たち。
十字架へ向かわれる師の心を弟子知らず、がここにもあります。
イエスの弟子たちと同様に、パウロの弟子たちと人々も彼にエルサレムに上っていかないように忠告、懇願した様子が記されています(使徒行伝21:4、12、13~14)。
「イエスの心、キリスト者知らず」に私達もならないことを願います。
③ みなのしもべとなり、仕える者になりなさい(:42~45)
マルコ9:31に第一回目の十字架と復活の予告があり、そのすぐ後に、イエスの弟子たちは誰が一番偉いかと論じ合っている場面があります。前にも同じようなことがあったような気がするのですが、その時にも、イエスは「人の先に立ちたいと思う者は、みなのしんがりとなり、仕える者となりなさい」、また、「わたしの名のゆえに、おさなご(小さい者)を受け入れなさい」と言われました。
「しもべになりなさい」とは身分の低い者になって、卑屈になってというのではありません。
世の偉い人、主人は、受けることを当たり前のように求めますが、そのような者ではなく、
愛をもって、喜んで主人に仕えるしもべのように、自らの持つ全ての良いものを主人にお返しする、そのような歩みをしたいと思います。
パウロの言葉;「主イエスご自身が、『受けるよりも、与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」(使徒行伝20:35)。パウロ自身、キリストと同じ考え・心をもって、苦難の待ち受けるエルサレムに、人々が必死に止めようとする中にあっても上っていったことがわかります。
十字架を負ってゴルゴダの丘をのぼられるイエス。そして、自分の十字架を負ってエルサレムに向かうパウロ。私達もイエスのおこころを知り、全ての事において「受けるより、与える方が幸いである」と考えて、十字架を負うイエスの御姿に目を留めて、後に続きたいと思います。
私たちは何を人々に「与える」ことができるだろうか。
時間、お金、贈り物、ことば、労、知識、情報、祈り、みことば、聞く、お便り、訪問、とりなし、命、等々。
イエスの弟子ペテロは、宮の門のそばで施しを求めていた男に「金銀は私にはないが、私にあるものを上げよう。主イエスの御名によって歩きなさい」と言って、癒しと、賛美と、新しい人生を手渡しました。
私にあるもの
主イエスからいただいた全ての祝福 愛・赦し・福音・力・みことば・祝福。
これらの祝福を、私が通り良い管となって(用いたまえわが主よ)、隣人に分かち与えましょう。
回復には、肉体の癒し、経済の回復、社会的回復 そして霊的な回復(神との交わりの回復)があります。
そして、それは、イエスにあり、聖書の福音にあり、神の国にあります。
教会は、そして、キリストにある者は、福音を手渡す(与える)日々を歩む者でありたい。
みなのしもべとなり、仕える者になりなさい。
受けるよりも、与える方が幸いである。
イエスの心、私の主であるイエスのみこころがこれらの教えにあるように、私の心も同様となって、
仕えるため、与えるため(:45)に歩み、生きる者でありたいと願います。
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