11月29日(日)礼拝説教全文

「目が見えるようになることです」   マルコ10:46~52

並行箇所 マタイ20:29~34(ふたりの盲人が) ルカ18:35~43(ある盲人が)

聖書協会共同訳見出し:盲人バルティマイを癒す

信仰によって救われるとは、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスの言われる信仰とは何でしょうか。

イエスはこの同じ言葉を、何度か福音書の中で言われています。(参考 マルコ5:34 長血の女に対して)

①  イエスに叫び続けた(:46~48)

イエスが、弟子たちや群衆と一緒にエリコの町から出られると、バルテマイという(テマイの子の意味)目の見えない物乞いが、道端に座っていました(名前を記すのはマルコの福音書だけ)。

彼はナザレのイエスが通られると聞いて、千載一遇のチャンスとばかりに、「ダビデの子のイエスさま、私をあわれんで下さい」と叫び始めました。

彼は、イエスが多くの病人を癒し、自分と同じ盲人の目を開かれた噂を耳にしていたのかも知れません。

私達の人生にも「神の祝福のチャンス」があります。例えば、クリスチャンと出会ったとか、誰かに教会に誘われた、一通の教会案内、トラクトを見た、あるいは最近ではホームページで見かけたとか、また、たまたま通りかかったら教会があった、ということもそうでしょう。 * 教会が隣に引っ越してきた。 

大声で叫び続けている彼を、大勢の人々は黙らせようとします。大勢で彼をたしなめ、叱って黙らせようとします。周りの者たちが寄ってたかって。

神の祝福を受けるチャンスを潰そうとする働きがあります。神の祝福に無関心で通り過ぎてしまう人もいますが、周りの目、世のしがらみが気になって祝福を受ける決断ができない人がいます。困難があるのであきらめてしまう人がいます。この世の様々な楽しみ、忙しさが、信仰の芽生えを塞いでしまうのです。

信仰に入らせまい、神の恵みに与らせまいとする働きです。確かに悪魔は血眼になって、世の終わりに、人を神の恵みから、その機会から人を引き離そうとします。

人が神に求める時に、いろいろな声、雑音が聞こえて来ます。

「求めてもあなたは何も変わらない」「あなたには求める資格はない」「やめておきなさい。きっと後悔するから」「あなたにはあなたの宗教があるでしょう」「お墓はどうするの、あなたの家族はどうするの」「騙されてはいけない」。

しかし、バルテマイはますます(激しく)叫び立てました、「ダビデの子よ、私をあわれんで下さい」。

信仰とは、イエスに求め続けることです。求め続けなさい、捜し続けなさい、叩き続けなさい。与えられるまで求めることです。失望せずに常に祈り続けることです。主に期待し、信頼して 主の全能のみうでに飛び込むことです。 * コロナ感染の収束のための祈りもそうです。決して無駄ではありません。

②  イエスのもとへ来た(:49~50)

するとイエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われました。

彼らは盲人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と伝えました。

すると盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって(踊りあがって:口語訳)、イエスのところに来ました。

信仰とは、イエスの前に立つことです。そして、キリスト者の生涯とは、イエスの前に立ち続けることです。

③ イエスによって目が開かれた(:51~52)

イエスは彼に「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねられました。

私達は主イエスに何を願っているだろうか?

今日の食べるものを下さい。数週間生活できるお金を下さい。有名にして下さい。良い仕事を与えて下さい。良い配偶者を与えて下さい。健康を与えて下さい。家族の平和を与えて下さい。人の願いはいろいろあります。無病息災・家内安全・商売繁盛・学業・恋愛成就・交通安全・大願成就、等々。

彼の願ったことは、もちろん 目が見えない疾患が癒されることではありました。

「目が見えるようになることです」。目が開かれることは、聖書の中では特別な意味があります。目が開かれることには、肉体の目と共に、心の目(信仰の目)が開かれることを示唆しています。

「あなたがたの心の目が明らかにされて」、神の国と神の義が、私達の人生において明らかにされていきます。

神の召し(私達の生きている意味・使命)、受け継ぐべき祝福(天国)、今生きて働かれる神の絶大な力が明らかにされていきます。(エペソ1:18、19)

神ご自身が、私の人生における神の御愛と、御支配の力の大きさ、これに目を開いてくださったら、どのような困難も試練も恐れることはありません。たとえ死の陰の谷を歩むとも恐れません(詩編23:4)。

「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。すると、すぐさま、彼は見えるようになりました。

信仰の結果(信仰による救い)とは、目が開かれることです。まさに今、彼の目は開かれた!イエスが見えない目を開いて下さいました! 信仰による救いとは、信仰の結果、目が開かれることです。まさに今、彼の目は開かれました!イエスが見えない目を開いて下さいました!

④ イエスについて行った(:52)

バルテマイはイエスの行かれる所について行きました。

ルカの福音書では、「彼は・・・神をあがめながらイエスについて行った」とあります(ルカ18:43)。

エリコの入り口近くで彼が物乞いをしていた場所から、彼は立ち去った。彼のいる場所はもうそこではないのです。

神をあがめながら、イエスについて行く。まさに、信仰とは、イエスに従うことです。

イエスに求め続ける者の幸い。イエスの前に近づく者の幸い。イエスに目を開かれた者の幸い。イエスに従う者の幸い。神は救いを私たちに与えてくださいます。神と私たちを隔てている壁、(すなわち)罪を、イエスによって取り除いていただきましょう。イエスの十字架の血潮が、あなたの罪を赦し、罪を取り除き、見えない目を開きます。

神の機会・チャンスを私達は常に与えられています。あなたは、それを逃してはなりません。見よ、今は神の恵みの時、今があなたの救いの日です。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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