12月6日(日)礼拝説教全文
「主がお入り用なのです」 マルコ11:1~14 (アドベント第二週)
並行箇所 マタイ21:1-11 ルカ19:28~40 ヨハネ12:12~19
参照:エペソ5:15~17
聖書協会共同訳見出し エルサレムに迎えられる
まず皆さんに質問します。あなたは、イエスのお役に立ちたいですか。
エルサレム入城(入場)。なぜ入城なのか。エルサレムはその町の周囲が壁で囲まれており、門を通って入らなければならなりませんでした。主であり王であるイエスが、最後に多くの人々に迎えられてエルサレムの門をくぐられるのは、まさに王としての入城の姿と言うことができます。
1、主のお入り用に応えた「ろばの子」(:1~11)
この場面から、エルサレム入城によって始まるイエスの生涯の最後の一週間が進行します。
マルコによる福音書の約3分の1(福音書全体でも約3分の1)は、イエスの生涯のエルサレムにおける最後の一週間の出来事の記述です。イエスは生涯の最後の3年間を公生涯として過ごされ、公生涯の中でも、エルサレム入城とそれに続く十字架、そして復活がどれだけ重要であったかがわかります。十字架への出来事をどの福音書も詳しく記しています。
先週は先頭に立ってエルサレムへ向かって行かれたイエスを読みました。
イエスはエルサレムに入られる前に準備をされます。
「向こうの村へ行きなさい。ろばの子が繋いであります。それをほどいて、引いて来なさい。『なぜそんなことをするのか』と聞かれたら、『主がお入り用なのです。すぐに返します』と言いなさい」。弟子たちが行ってみると、ろばの子が繋いであり、ろばの子の所有者は許してくれました。
ろばの所有者も、ろばの子も、主の必要に応えました。
弟子たちはろばの子に自分たちの上着をかぶせ、イエスはその上に乗られました。そして、ろばの子に乗ってイエスはエルサレムに入られます。
このような子供賛美歌があります。
「私達はろばの子です」 作詞 植木真子 作曲 早川佳身
「私達はろばの子です。馬のように早く走れない、ライオンの様な力なんかない、ただのちっぽけなろばの子です。だけど、あなた知っていますか。ろばが主のお役に立ったこと。イエスさまを背中にお乗せして、エルサレムにお連れしたことを。走れなくても強くなくても、いつもイエスさまがいてくれます。私達はろばの子です。神様のために、神様のために、働きます。」
マタイによる福音書では、救い主がエルサレム入城される時には、ろばの子に乗って入られる、これはゼカリヤの預言の成就であると記されています(マタイ21:4、5)。「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ9:9)。
どうして「ろばの子」なのか。
馬は戦いのしるし、鳩は平和のしるし、ろばは柔和のしるし。「ろばの子」はへりくだって黙々と忠実に働くしもべの象徴です。イエスは、力による勝利者、支配者ではなく、愛による勝利者、支配者です。
武力や権力によって戦い勝ち取ったもの・国は、やがて戦いによって滅びていきます。それは世界の歴史が証明しています。心に留めましょう。神の愛によって勝ち取ったもの・国は滅びることも衰退することもありません。
* 中世のローマにおいて、大迫害の後にキリスト教が国教となっていった経緯について。もちろん政治的な意図もあったかも知れませんが、殉教したキリスト者の愛と忍耐が勝利をもたらしました。
* 「ミッション」という映画 18世紀の南米パラグアイへイエズス会が布教したドラマ映画。
そこには二人の主人公が描かれており、原住民の為に武器を取って戦う宣教師の弟子と、無抵抗で十字架を掲げて戦う宣教師の姿があります。
私達の王イエスは柔和の王です。柔和で、「ろばの子」のようにへりくだり仕えてくださった(クリスマスの意味)、あわれみといつくしみ深い王、愛の王なのです。
多くの群衆が叫んでイエスを迎えます。
「ホサナ。」(Hosanna ヘブル語「どうか救ってください」「今、救ってください」の意味)。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
イエスはエルサレムに入城され、そして宮に入られました。
* 夕刻ベタニヤへ
2、主のお入り用に応えられなかった「いちじくの木」(:12~14)
並行箇所 マタイ21:18~22 聖書協会共同訳見出し いちじくの木を呪う
酷な話ではありますが、翌日、イエスとその一行が、ベタニヤ村(マルタとマリヤ、ラザロの家)からエルサレムに行かれる途中、空腹で、葉の茂ったいちじくの木を見ると、いちじくの実がなっていませんでした。「いちじくの季節ではなかったから」とあります。ところが、主イエスは「今後、この木から誰も実を食べることがないように」と木に向かって言われました。…お腹が減って八つ当たりした、というのではありません。
その翌日、イエスにのろわれたいちじくの木は根まで枯れていました(:20~21)。
「ろばの子」と「いちじくの木」は何を私たちに教えているのでしょうか。
主のための働きは、「時が良くても、悪くても」(第二テモテ4:2)とあります。
主が必要とされる時に、すぐにそれに応える者でありたい。
「私はまだその時ではありません」「今は無理なので後にいたします」「別の用事がありますので、後で」後で、後で、後で。それで良いのでしょうか。
「あなたを、あなたの働きを、今、主がお入り用なのです」というメッセージを私達はこの朝、聞きます。私たちの主イエスに必要とされ、主のお役に立てるとは何と光栄なことでしょうか。
* ある宣教大会で示された「招きのことば」
イエスは柔和の王
柔和の王が、主が、お入り用なのです。私たちを入り用としておられます。そのままで、すぐに(ただちに)イエスの招きに応える私達でありましょう。機会を逃してはなりません。
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