12月27日(日)礼拝説教全文

「全ての民の祈りの家」マルコ11:15~19 (第一コリント6:19~20)

(並行箇所:マタイ21:12~17、ルカ19:45~48) 

(参照:ヨハネ2:13~22、イザヤ56:7、)

聖書協会共同訳見出し 神殿から商人を追い出す

 本日の礼拝は2020年、最後の主日礼拝となります。世界中の誰も予測できなかったコロナ禍の中にはありましたが、一人ひとりが今年一年を振り返って、主の御前に自らの信仰生活、自分自身を吟味する時といたしましょう。年末には日本では「大掃除」の習慣がありますが、私たちの内側も整理する時としましょう。

イエスは3年の公生涯の中で、2度「宮きよめ」を行っておられます。公生涯がスタートして間もなく、エルサレムに過ぎ越しの祭りに上られた時(ヨハネ2:13~22)、そして、マタイ、マルコ、ルカにあります、十字架直前の過ぎ越しの祭りにエルサレムに上られた時です。

過ぎ越しの祭りは、ユダヤの最も大きな祭りで、出エジプト、すなわちイスラエルの奴隷解放を記念するものです。各地に点在している多くのユダヤ人、又、異邦人や異邦人改宗者たちも祭りにエルサレムへと集います。イエスの公生涯が3年と言われるのは、ヨハネの福音書の中に、三度過ぎ越しの祭りの記事があるからです(2:13、6:4、11:55)。イエスは生涯のほとんどを、カペナウムを中心として、ガリラヤで活動、宣教して過ごされました。しかし、4つの福音書共に、イエスの生涯の焦点は、エルサレム入りされてから最期の一週間、十字架に向かわれ、死を遂げられたことであることがわかります。

宮をきよめる

宮(神殿)は礼拝の場であり、祭壇→会見の幕屋→神殿→会堂→教会という旧約聖書から新約聖書の礼拝の場の呼び名の流れがあります。

神殿は、神ご自身が御臨在下さると約束して下さった場所です。そこに私たちも詣でます。

神殿の構造は、異邦人の庭、ユダヤ人の中庭、ユダヤ人男性の間、祭司だけが入れる聖所、年に一度だけ大祭司だけが入れる至聖所となっています(因みに「美しの門」は、異邦人の庭からユダヤ人の中庭に通じる門)。神の御臨在(至聖所)に近づく、を深く味わう構造になっています。

イエスは、ベタニヤから再びエルサレムに入り、神殿に来られました。これはその時の、異邦人の庭での出来事です。イエスは両替人、鳩を売る者の台を覆し、彼らを追い出し、境内を通って物を運ぶことを許されませんでした。そして、「あなたがたはこの場所を強盗の巣にしてしまった」と厳しく叱責されています。このような異邦人の庭の状態は、実は商売の場所にして自分たちの懐を肥やしている祭司たちが作っていました。

* 神殿貨幣への両替、いけにえの捧げ物の厳しいチェック、その利益。神殿内の事に関しては、捧げ物においても、献金においても、誰も何も言えない状況がありました。旧約時代においても、エルサレムに偶像が運び込まれたりすると、宗教改革者達は、そのようなものを排除していきました。腐敗した神殿礼拝の改革がありました。

キリストは、「霊とまことをもって礼拝する場」を私たちの人生に回復してくださいます。

 イエスが激しい感情をもって、これほどに怒られたのは何に対してでしょうか。

 神殿を当時の宗教的指導者である祭司が、商売の道具にしていたこともそうですが、「異邦人の祈りの場」を、祈りの場でなくしてしまった神の民イスラエルに対してではないでしょうか。本来の「祈りの家」が祈りの場でなくなってしまっている。両替の音、捧げ物の動物の鳴き声、商売人の声、行き交う物を運ぶ人の土埃…その賑やかさ、喧騒の中で、祈りの家としての機能は全く果たされていないのです。

過ぎ越しの祭りに参加するために遠くから、外国からも、時間をかけて神殿に上って来た異邦人の改宗者たち。しかし、そこでは、静まって祈ることすらできません。

「わたしの家は、すべての民(国々の民)の、祈りの家と呼ばれる」。

イエスの家は、全ての国民のものです。教会の礼拝にクリスチャン以外の人が出席していいですか?是非いらしてください。教会はキリスト者だけのものではなく、全ての人の祈りの家です。

祈りの家。それは、神に祈り、感謝の捧げ物をし、ほめたたえる場所。神の臨在に近づき、神に会見し、自分自身を神に司っていただく場所。神とその愛の中に自らを置いて、深く神と交わる場所です。家長は父なる神であり、私たちは神の子ども、神の家族です。

イエスがこの後に十字架の贖いを完成された時、神殿の幕(聖所と至聖所とを隔てる幕)が上から下まで真二つに裂けました。今や、キリストにある者は、誰でも大胆に神の御前に近づくことができます。

今年最後の礼拝でこの聖書個所が導かれて開かれていますのは、今、コロナ禍によって教会に積極的に集えないという、キリスト教の歴史でも経験したことのない中にあって、各自が、各家庭が、礼拝の祭壇をしっかりと立てなさい、築きなさい、というものではないでしょうか。

イエスは宮をきよめられて、本来の神の宮、「祈りの家」を回復されます。

パウロは、第一コリント6:9で、「あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、神から受けた聖霊の宮である」と言っています。私たちの内にある宮は何に満ちているでしょうか。強盗の巣になってはいないでしょうか。何を食べるか飲むか、どのように着飾るか、どのように暮らそうか、何をもって自分を満足させようか、世の煩わしさでいっぱいになっていないでしょうか。動物の声や、お金の音や、日々の生活の雑多な音に満ちていないでしょうか。

イエスに、内側をきよめていただきましょう。

私たちの心に、生活の中に、「祈りの祭壇」を立て直しましょう。

自宅での動画礼拝は、そのような、あなたに設けられた時です。

日々の暮らしのただ中で、礼拝を真摯に捧げることは難しい事でもあります。いろいろな物が目に入ります。様々な障害があなたを阻むでしょう。しかし、教会の会堂で礼拝する時と同じように、主日礼拝をささげましょう。安息日を聖としましょう。そして、再び会堂で集まって礼拝をささげることができるように、コロナ収束のために祈りの手を上げ続けましょう。

自らの信仰生活に、宮きよめを成されたイエスに来ていただいて、霊的改革、刷新を行っていただきましょう。聖霊を今日、〈私〉という宮にお迎えしましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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