1月3日(日)礼拝説教全文
「信じて祈り続けなさい」 マルコ11:20~25
並行箇所:マタイ21:20~22
聖書協会共同訳見出し 枯れたいちじくの木の教訓
本日の聖書箇所は、私達の「信仰」「祈り」に関して、即ち、あなたの信仰はどういうものか、あなたの祈りはどうなっているか、というイエス様からのチャレンジのことばです。
1.信仰について 2.祈りについて 3.神を信じる者について考えてみましょう。
1.信仰について
「山に向って・・・・と言って、言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(:23)
信仰によって山が動くという内容は、マタイ17:20では、「からし種ほどの信仰があれば山も動く」とあり、第一コリント13:2には、「山を移すほどの信仰をもっていても」という表現もあります。「山」は実際の目に見える山ですが、自分の前に立ちはだかる大きな壁、課題、困難、そのような部類のあらゆる山をも示していると思います。
いちじくの木が枯れました(:20~21)
前回マルコ11:12~14から、いちじくの実りの時期ではなかったが、主の必要に応えられなかったこの木の記事を読みました。(これとは対照的に、その前日、主がエルサレムに入城(入場)される時、ろばの子が主の必要に応えて主をお乗せしたことを学びました。)その後、このいちじくの木はイエスが言われたとおりに(のろわれたかのように)根まで枯れてしまいました。
「自分の言ったとおりになると信じるなら、そのようになる」(:23)
このことが起きた上で、イエスは弟子たちに「自分の言ったとおりになると信じるなら、そのようになる」と言われます。
イエスが言われたことはそのとおりになります。それはイエスのことばだからです。神が言われたことはそのとおりになります。それは神のことばだからです(創世記)。聖書のことばは、約束も、預言も全て必ず実現します。
「まことにあなたがたに告げます」。これはイエスが大事なことを話される前に使われることばです。
「この山に向かって『動いて、この海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」。
イエスは、神は、そのように約束しておられます。しかし、私たちはどうでしょうか。信じて祈れば、信じて宣言すれば、そのとおりになるだろうかと疑い、また、弟子たちも、本当にそんなことがあるだろうかと疑ったかも知れません。
疑いは、私たちの信仰を阻む最もやっかいな雲です。心の中で疑わず、神の全能を疑わず、一心に神に求めることが大切です。時に人の知識や経験が神のわざを疑います。年を重ねれば重ねるほどそうなるかも知れません。非常識だ、あり得ない、無知だと。そもそも人の学問とは、疑うところから始まるのかも知れません。「自分の悟りに頼るな。自分を知恵ある者と思うな」(箴言3:5、7)と聖書は語ります。子供の信仰は信じて疑うことがありません。大人は信仰に大切なもの失い、子供に見習わなければなりません。
「神を信じなさい」(:22)
「神を信じなさい」とイエスは言われます。この短い言葉が私達の人生にとってどんなに深く、力強く、大事なものでしょうか。全能の神、何でもおできになるお方を信じなさい。言われたことばどおりに成就される神を信じなさい。無から有を呼び起こすことのできる神を信じなさい。あなたを愛し、救って下さる神を信じ、呼び求めなさい。
* 言った通りになるという経験 非常に恐れ多いこと 神を畏れる経験 「信仰」
井土ヶ谷教会での中高生会の証詞 南つくば教会でのイースターエッグハンティングでの証詞
2. 祈りについて
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい」(:24)
さらに、イエスはどのように信じて祈るかを教えられます。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば(すでに受けたと信じるなら)そのとおりになります」
「すでに受けたと」 信仰による先取り(先取り信仰)です。まだ起こっていない出来事を、受けていないものを、既に受けたと信じるのです。そのように祈っていますか。それが信じて祈るということです。
「祈りの力」という題名の映画があります。原題は「WAR LOOM」、「戦いの部屋」という意味です。時に祈りは戦いです。神との組み討ちです。膝と膝を合わせて、神からの祝福、確信をいただきます。
* 学院教会の真島きょうこ姉妹の癒しの証詞
* ユースジャムでの200万円の交通費支援金の話し合いの証詞
「また、立って祈っている時・・・」(会堂や、人の前で代表して祈る時)(:25)
さらに、イエスはどのようにして祈るかを教えられます。「誰かに対して恨みごとがあるなら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
教会に行って祈りをささげる前にすべきこと、それは、「我らに罪を犯す者を 我らがゆるすごとく 我らの罪をも許したまえ」の主の祈りにあるように、赦せないと思う人を赦すことです。
隣人を、兄弟を、人を憎んだままで、赦さないままで、そのままで神の前に立たないように、とイエスは言われます。
とりなしの祈りをする前に、隣人と和解してから祈りに臨むことは、神の前に立って祈る私たちにとって大変大きな恵みです。神の前に立って祈ることは、常に私たちの内側が探られ、私たちは自分にできないことを、願わない事さえも実行させていただけます。私の内にいますキリストが、それをして下さいます。
3.神を信じる者について
私たちは山を動かすことも、罪を赦すこともできません。
天地を動かすことのできるお方は、主のみです。罪を赦すことのできるお方は、主のみです。〈私たち〉の信仰や祈りではありません。〈神〉が成されます。
これは、私達の祈りを神は何でも叶えて下さるというメッセージというよりもむしろ、〈信仰によって〉、イエスの働き、神の働きを成す者としてくださる、イエスのわざを行う者とされることを意味しています。
神の働きは信仰によってしか成すことはできません。
私たちは、必ずなしてくださると神を信じて、イエスを信じて、疑わず、祈るのみです。そこに主が、全能の御手を動かしてくださいます
「神が共におられるのでなければ、このようなしるしを誰も行うことはできません」。イエスに対してニコデモが言った言葉です(ヨハネ3:2)。イエスの弟子はイエスのわざを行います。そして世の人がそれを知ります。
ところで、私たちが祈りの最後に宣言するアーメンとは何でしょうか。
ハイデルベルク信仰問答集には次のように説明されています。
問129:「アーメン」という言葉は、何を意味していますか。
答:「アーメン」とは、それ(その祈り)が真実であり、確実である、ということです。なぜなら、これらのこと(主の祈りの内容)を神に願い求めていると、わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。
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