1月17日(日)礼拝説教全文
「捨てられた石によって」 マルコ12:1~12
並行箇所:マタイ21:33~46、ルカ20:9~19
聖書協会共同訳見出し 「ぶどう園と農夫のたとえ」
イエスが宮きよめをされた(神殿にいた両替人や商売人を追い出された)ことを、イエスに向って「何の権威によって、誰の許可を得てこんなことするのか」と詰め寄った祭司長、律法学者、長老たちに対して、イエスはたとえを用いて彼らに話されます。
イエスはこの後、十字架へ向かって行かれます。その前に裁判にかけられますが、ユダヤ人の裁判は、大祭司、又、この祭司長と律法学者、長老たちで構成されていたサンヒドリン70人議会でした。
イエスの話されたたとえ
ぶどう園の主人が、自分の作ったぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出ました。
季節になってぶどう園の収穫を受け取りに、主人はしもべを遣わします。
しかし、このしもべを農夫たちは袋叩きにして、何も持たせないで返しました。
二人目も殴って、辱めて、何も持たせないで返しました。
次々にしもべを送りますが、袋叩きにしたり、殺したりしました。
ついにぶどう園の主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」と、愛する息子を遣わします。
ところが農夫たちは、「あれはあと取りだ。あれを殺せば財産はこちらのものだ」と、彼を捕らえて、殺し、ぶどう園の外に投げ捨てました。ひどい話です。
ぶどう園の主人はどうするでしょうか、とイエスは問います。
主人は戻って来て、農夫達を打ち滅ぼし、ぶどう園を他の人たちに与えてしまいます、とイエスは言われます。
祭司長、律法学者、長老たちは、このたとえ話を聞いて、この欲深い、残虐な農夫たちが、自分たちをさして語られていることに気づきます。
たとえには意味があります。このたとえは聞いていた彼らにもわかった様に非常に明解です。
① ぶどう園の主人は、「天地創造の神、イスラエルの神、父なる神」です。
② 農夫たちは、「ユダヤ人(ユダヤ人の指導者)」「神の祝福(ぶどう園)を託されたユダヤ人」です。
本来ユダヤ人は、神のぶどう園を託された特権に与かった人々です。
農園の収穫は、神の恵みに対する感謝、賛美、礼拝です。神にお返しするものです。
しかし、彼らは託されたものに対して何一つ返さなかった。
神に何も返さない農夫達(宮を商売の道具とし、私腹を肥やすこと、自分たちのことしか興味がない彼らの醜い姿があります。)
神の恵みに対して、何も返さない者は、まさにこの農夫たちと同じです。
③ 主人から遣わされたしもべたちは、「バプテスマのヨハネを含む旧約の預言者たち」です。
神は神の民イスラエルが、悔い改めて、神に立ち返るように、何度も何度も預言者(旧約聖書に記されている多くの預言者たち)を遣わされます。しかし、彼らは聞き入れません。袋叩きにしたり、殺したり、預言者に対して迫害を加えます。
バプテスマのヨハネの例と同様に預言者たちのことばに耳を傾けて悔い改めることのなかったイスラエルの歴史があります。
④ そして最後に主人から遣わされた主人の愛する息子とは、誰が読んでも明らかです。このたとえ話をしておられる、そう、イエスそのお方、神の愛するひとり子を示しています。
この先は、十字架の予告となりますが、神から遣わされて来られた、神のたったひとりの御子を殺し(十字架上で)、ぶどう園の外に投げ捨てます(エルサレムの都の外ではりつけにしました)。
イエスの話された内容は、祭司長、律法学者、長老たちに向けて語られたたとえであり、又、この後間もなく主イエスの身に起こる事の預言であることがわかります。
しかし、大事なのは、この悲劇で終わることなく
最後に語られた、「農夫たちは打ち滅ぼされ(退けられ)、他の人たちにぶどう園を与えた」(:9)という言葉です。
⑤ 他の人たちとは、「異邦人」であり、それは「私たち」です。
最初は誰か他のひとのことなのかな、当時のイエスに敵対していた他の人たちに対してなのかな、と油断して、たとえに耳を傾けていた私たちは、このたとえの最後を聞いて、その方向は今これを読む私に向けられていることを、このようにして私は神の恵み、救い、ぶどう園に、神の国に入れられたのだと知るのです。
イエスはこのたとえの総括として、詩編118:22、23を引用されます。
「家を建てる者の捨てた石」(詩編118:22) = 捨てられた主イエス・キリスト
本来、家を建てる者が使うべき石、それを彼ら(ユダヤ人)は捨てた。
「それが、礎の石となった」(詩編118:22) = 異邦人(全世界)の祝福の礎となっていった
「これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」(詩編118:23)
ユダヤ人の捨てた主イエス・キリストが、全世界の人々への祝福の礎となります。
ぶどう園(神の祝福)は、ユダヤ人から取り去られ、私達に託されることとなりました。
主のなされた不思議であります。
祭司長、律法学者、長老たちが、このたとえが自分たちを指して語られたことに気づいた…とありますが、私たちも気づかなければなりません。
彼らは、怒り心頭だったでしょう。しかし、前回の宮きよめと同じく、群衆を恐れてイエスを捕えることができませんでした。
主イエスが十字架で苦しみを受け、死なれたのは、捨てられて、「捨てられた石」となってくださったのは、このぶどう園の神の祝福を、ここにいる私達が受け取るためであります。
これは、主のなされた不思議です。全く、神の約束(契約)と何の関わりのない私達が、主イエスの死、主イエスの命の代償によって、この祝福を受け取ることになったのです。
教会の礎、又、私達キリスト者の人生・生活の礎は、捨てられた石、十字架で捨てられた主イエスです。
ご自身の民であるユダヤ人から捨てられ、そして、私達の罪のために身代わりとなられて、神からも捨てられて下さった石。愛と祝福の礎。尊い、かけがえのない石。それが、私達の救い主イエス・キリストです。
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