1月24日(日)礼拝説教全文
「神のものは神に」 マルコ12:13~17
並行箇所:マタイ22:15~22、ルカ20:20~26
聖書協会共同訳見出し 皇帝への税金
「さて、彼らは」とは、祭司長、律法学者、長老たちであり、先の一件(宮きよめ11:15~18)で、イエスを捕らえようとしていた人たちです。「何の権威によってこれらのことをするのか」というイエスへの質問から始まり、イエスの言葉尻を捉えて訴え、陥れようとします。マルコ12章では、そのようなイエスへの質問がまとめられています。
12:13~17 カイザルに税金を納めることについての質問
12:18~27 復活についての質問
12:28~34 最も大事な戒めは何ですかという質問
それから後は、誰もイエスにあえて質問する者がなかった(:34)、という流れになります。
(他にもイエスの言葉尻を捉えて、イエスを陥れようとした問答はあります)
今日は、「ローマの皇帝カイザルへの税金について」イエスに投げかけられた質問です。
彼らは、刺客を送ります。パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところに送ります。
パリサイ人(派)とは、律法(の形式)を重んじ、神の民は異邦人と交わらず、迎合せず、聖別された道を歩む、ある意味では堅物、律法主義者と言われる人々です。律法を守らない者、罪人を容赦しません。
ヘロデ党とは、聖書の中ではそれほど多く出てきませんが、ローマの政策の中で、自らの権力を固執する者達の集団。ヘロデ王をはじめとして、手段を選ばず自らの権力の安泰だけを図る集団です。
ある意味では、彼らは両極端な人たちです。
もともと律法学者と祭司も、パリサイ派とサドカイ派と言われて、互いに相容れない人達でありましたが(日本で言えば与党と野党のようなもの)、「イエスを無きものにしよう」という思いでは一致していました。
計らずも、共通の敵を見つけることによって一致するユダヤの指導者たち、という構図があります。
彼らはイエスのところに来て、まず、イエスよ、あなたは次のようなお方です、と言っています。これは実にイエスがどのようなお方であるか、見事に言い当てた言葉ではあります。
「先生、私たちは、①あなたは真実な方で、②だれをもはばからない(ためらう、遠慮する、気兼ねすることがない)方です。③人の顔色を見ず、④真理に基づいて神の道を教えておられます」。
これはへりくだった、教えを乞おうとしている、彼らの心からの言葉だったのでしょうか。いいえ、これは
皮肉であり、これから質問する難問に対しての伏線に過ぎません。彼らは決してイエスをそのように見ていなかったでしょう。そのような見方は、何も知らない、イエスに騙されている愚かな民衆が言っている「戯け言」に過ぎないというものだったと思います。
しかし、この彼らの否定的で毒の入った言葉さえも、実はイエスというお方を見事に表現しています。サタンでさえも、イエスをよく知っており、恐れおののいているとあります。しかし、その言葉は正しい評価であったとしても、信仰心も、謙虚さも一切ありません。
前回同様、イエスと宗教的指導者たちの対比があります。
祭司長、律法学者、長老たちは 群衆を恐れました(11:18 11:32 12:12)。
しかし、イエスは誰をも、何をも恐れません。人の顔色を見て調子を合わせることをせず、まっすぐに神の道を教えるお方です。
ここからが本題です。
「カイザルに税金を納める事は律法にかなっていますか。税金を納めるべきか、納めるべきでないか、どちらでしょうか」。もし、税金を納めないという回答であれば、ローマに対する反逆罪となり、納めない人をヘロデ党の者達が捕えて、ローマに引き渡します。税金を納めるという回答であれば、(民衆はローマからの解放を願っていたので)、民衆の期待を裏切ることになり、イエスはローマ人に従属して律法に従わない者、ユダヤの民衆の味方ではないという烙印を押そうとしていました。
白か黒か。あれかこれか。対立をもって争うのは、悪魔の罠の常套手段です。これに賛成か、反対か。ここに人の争いがあります。思想、宗教、政治、考え方、ものの見方の違いで人は争います。
教会の礼拝で、ピアノで奏楽するのは良か、否か。参加するのかしないのか。牧師に従うのか否か。
(戦前の日本ホーリネス教会の分裂 教会形成と伝道中心か、再臨運動とユダヤ民族回復の祈りかの選択)そこには、分裂・分派があります。
聖書のことばは無誤か無謬(むびゅう)か。安息日は土曜か、日曜か。キリストは神か、人か。
現在に異言は必要か否か。教会に残るか、出るか。
教会も分裂を繰り返してきました。どちらか・二者択一という場合、それは悪魔の常套手段です。
しかし、第三の道がそこにあります。
イエスは彼らの偽装・罠を見抜いて言われます「なぜ、わたしをためそうとするのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」。
デナリ銀貨、それは、当時の通商に使われていた貨幣(日本の1万円札、5千円札、千円札。福沢諭吉、樋口一葉 野口英雄の肖像。)貨幣・紙幣は、生活のシンボル、必需品です。おそらく、彼らもその貨幣を使っていたのでしょう。
そこで主が「これは誰の肖像ですか。誰の銘ですか」と質問され、彼らは「カイザルのです」と答えました。
ティベリウス・カイザルは、聖なるアウグストの息子、大祭司。「神であり、主(キュリオス)である」、と称えられていました。
すると主は言われます。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」
彼らはイエスに驚嘆しました。こんな返答が返って来るとは誰も思っていませんでした。そしてこの回答を非難する言葉を彼らは持ち合わせていなかったからです。この質問は彼らが練りに練って、イエスを試すために作ったしたたかな質問だったのでしょう。
ここに大事なメッセージがあります。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい」。キリスト者は、その国にあって与えられている義務を全うします。日本においては国民の三大義務というものがあります。「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」です。私たちは(偶像礼拝に関しては別として)、その国で定められた義務を果たします。
もうひとつのメッセージは、更に大事なものです。「神のものは神に返しなさい」というものです。
さて、何をお返しするべきなのでしょうか。人の一生とは、神から受けて、神にお返しするものです。
神のものとは何でしょうか。宇宙・太陽・地球は誰のものでしょうか。空気や水は誰のものでしょうか。世界中に豊かな実りを与えるのは誰でしょうか。生命は、世界は誰のものでしょうか。
私の時間、私の生涯は誰のものでしょうか。私の人生は私のものでしょうか。いいえ、人は神の憐みなしには生きていけないものです。
イエスに命を受けた人に問います。命は誰のものですか。「神のものは神に返しなさい。」このみことばに真摯に応えましょう。「皆献げまつり、我がものはなし」と告白し、告白にふさわしい日々を過ごしましょう。
「神に献げよ」 内村鑑三
あなたの財産を神にささげよ。
そうすれば、神はご自分のものとしてこれを守り、いかに乱れていようとよく整理し、再びこれをあなたにゆだねて、ご自分のものとして用いてくださる。
あなたの体を神にささげよ。
神は、ご自分のものとしてこれを養い、病の重きによらずこれを癒し、再びあなたに与えてご自分のものとして用いて下さる。
あなたの霊魂を神にささげよ。
神は、ご自分のものとしてこれを聖め、あなたの罪がたとえ緋のようであっても雪のように白くし、再びこれをあなたに返して、ご自分のものとして用いてくださる。
神にささげよ。神のものとせよ。神ご自身に自由に力を施してもらいなさい。
そうすれば、乗り越えられない困難はなく、癒されない病はなく、きよめられない罪はない。
乱れたまま、病んだまま、汚れたままで、いま神にささげよ。神の大能をもって、あなたに代わって整理、治癒、救済をしていただきなさい。
0コメント