1月31日(日)礼拝説教全文
「生きている者の神」マルコ12:18~27
並行箇所:マタイ22:23~33、ルカ20:27~38
聖書協会共同訳見出し 復活についての問答
イエスへの質問「復活について」
先週、パリサイ人とヘロデ党の者たちがイエスを陥れようとして、「カイザルへの税金について」質問しましたが、彼らはイエスの答えに驚嘆し、彼らの画策は失敗し、尻尾を巻いて去りました。
バトンタッチするように次にイエスを陥れようと、計画を練って挑戦したのはサドカイ人たちでした。前回説明したように、サドカイ人は大祭司、祭司長、祭司によって構成される人々で、復活はないと主張していた人たちです。同じ宗教的指導者でも、対するパリサイ人は死後の世界を信じ、復活はあると主張していました。サドカイ人たちがイエスに質問したのは、死後の復活に対して、その矛盾点を示そうとする否定的なものでした。
彼らの質問はこうです。モーセが律法に記した申命記25:5にあるものです。
「兄が死んで妻を後に残し、しかも子がない場合は、その弟がその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない」。これはレビラト婚の習慣と言って、兄の名をその一族に残すために、次の弟が兄の妻をめとり、子をもうけるというものでした。彼らはその律法を取り上げ、このように質問します。「7人の兄弟がいて、長男が妻をめとり、子を残さず死んで、次男がその女を妻にしました。しかし次男も彼女に子を残さず死んで、三男も同様で、このようにして、7人共に子を残さないで死にました。最後に女も死にました。復活の際、彼らがよみがえる時、その女は誰の妻となりますか」という質問です。復活があるなら、モーセのこの律法は、重婚のようなもの、又、レビ記20:21「人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた」とあります。モーセの律法に矛盾が生じます。モーセの律法は正しい。そのような矛盾はないので、復活自体があるはずはない、と結論付けるものです。
私達はこの質問を聞きますと、何と稚拙な質問だろうかと思います。しかし、彼らは大真面目に質問しています。彼らは、これによって復活を主張する人たちは、モーセの律法に矛盾していると言いたかったのです。
この時代、復活を主張するパリサイ人も、生きている生活の延長線上に復活があると考えていました。地上での生活の血縁関係もそのまま、復活後も継続されると。確かに、天国に行ったならば、アブラハムもモーセもエリヤも、ペテロもその人でしょう。又、自分の妻も、子も、親も、認識することができるでしょう。私たちは死別した近しい者と、やがて天国で再開できるのを楽しみにしています。
ただ、私たちがイエスによって、聖書の教えによって知っていますのは、復活の後の世界は、今の世界とは全く違うものであるということです。
イエスは言われます「そんな思い違いをしているのは(間違った捉え方をしているのは)、聖書も知らない、神の力も知らないからではありませんか」(並行箇所はマタイのみ)。イエスは当然でありますが、死者の復活を教えています。
イエスの復活などはない、と主張するキリスト者、教会もあります。それは理性的であり、知的であり、きちんと学べばわかることだと言います。イエスのことばのそのままを、そう主張する人たちに言いたい「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか」。
聖書がイエスはよみがえられたと教えています。神の御力は人の知識に納まることなく、不可能なこと、できないことはひとつもありません。私たちは信じます。イエスは三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまえり。
私たちの歩みにおいて、聖書のことばを信じる、神の力を知る、とはどんなに恵みであり、力強いものでしょう。
復活後の新しい世界、イエスが用意し、迎えて下さる天国はどのようなものか。イエスのことばからその世界を少し垣間見ることができます。「人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」。(並行箇所:マタイ22:30、ルカ20:34~36)
復活の後は、死ぬことはありません(ルカ20:36)。子をもうけないことで絶滅することもありません。((現在の日本の出生率は1.36%です。ひとりの女性が生涯に生む子供の数の平均です。そして、すべての子供が80歳まで生きるとは考えられません。日本の人口数は2008年を境に減少しています。そして、ますます少子高齢化社会へ進んでいます。)
聖書を知りません。イエスは、死人のよみがえり、つまり神にあって死んだ者が今もなお、生きていることを、出エジプト記から説きます。「モーセの書にある柴の箇所で(出エジプト記3章)、神がモーセにどう語られたのか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。」(:26)
この神のモーセへの呼びかけを、イエスは、あなたがたの先祖アブラハムが、イサクが、ヤコブが、過去にかつて生きているときに仕えた神と解釈せず、このお方は、死人の中に朽ち果ててしまった者の神ではなく、生きている者の神である、とイエスは解き明かされたのです。
「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です(:27)。」《聖書をしっかりと読みなさい。》
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた(マタイ22:33)。ルカでは、「律法学者のうちのある者たちが答えて『先生。りっぱなお答えです』と言った」。パリサイ人・律法学者は、死者の復活を主張していました。この課題はサドカイ人との反目の論争点でしたが、イエスに敵対する彼らが、不本意ながらもイエスに軍配を上げています。
天の御国は、罪もなく、涙も、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない(黙示録21:4)ところであると知っている私たちには、今回のサドカイ人の質問は、理屈をこねた幼稚なもののように思えますが、この問答の中にもイエスの大切な教えがあります。それは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということばです。
天の御国を、復活の命を、イエスを信じ従ってきた者が報酬として受ける。死んで後に受ける。これは間違ってはいません。神は地上の生活で何を受けなかったとしても、イエスを信じる者に豊かに与えて下さいます。
しかし、今日聴くイエスのことばは、「生きている者の神」です。罪が赦されて、永遠の命であられるイエスをいただいて、神と共に、今生きる。それは天国です。死んでから供養をしてもらうのではありません。死んでから成仏を祈るのでもありません。生きているうちに、救われ、神の支配に入るのです。神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神です。
私の親戚に創価学会に所属する者がいて、彼は青年団でいろいろと活動をしていました。私がキリスト教の牧師になったのを知って、彼は私に、日本の仏教がキリスト教に見習わなければならないことがあると言いました。仏教は人が死んでから、一生懸命、供養し、法要(追善供養)を行う。死んだ人には手厚いが、生きている人にはあまり熱心でない。キリスト教は一生懸命、生きている人に伝道する。病院に僧侶が来ると喜ばれないが、牧師が来ると喜ばれるのが良くわかる、と酒を飲みながら言っていました。
私たちの神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。
死んでからお会いするのではありません。今、生活の中で、私の日々の中でお会いする神です。
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