2月7日(日)礼拝説教全文

「神を愛せよ。隣人を愛せよ」 マルコ12:28~34

(並行箇所 マタイ22:34~40 ルカ10:25~28)

マタイとルカの並行箇所を読むと、内容の違いをみることができるので、比較して読んでみて下さい。

聖書協会訳見出し 最も重要な戒め

イエスをことばの罠に掛け、陥れて捕らえようとし、問答を投げかけてくる祭司長、律法学者、長老たち。

イエスに質問した人たちのリスト

11:27~ 祭司長、律法学者、長老たち

12:13~ パリサイ人、ヘロデ党の者

12:18~ サドカイ人

12:28~ 律法学者

12:34  「それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった」

イエスへの最後の質問は、旧約聖書に数多くある戒めの中で何が一番重要かというものです。

旧約聖書には、モーセの十戒をはじめ、多くの律法、戒めが記されています。

「トーラー(成文律法)」には一年の禁令365と社会的義務248を足して、613あります。

「ミシュナー(口伝律法)」は成文律法を日常生活に適応させる戒律で、さらに数多くあります。イエスの時代、口伝律法は言い伝えの形でしたが、後に文章にまとめられ、それは「タルムード」と呼ばれています。

旧約聖書の戒めは、どれも大切な神の戒めですが、その中でもユダヤ人が「シェマー(聞け)」という、家の入口の門柱に付けたり、常に携帯する札の様なものがあります。そこには、申命記6:4の言葉が記されています。「シェマー。イスラエル。(聞きなさい。イスラエル。)主は私たちの神。主はただひとりである。」

律法学者は、我らの神、唯一の神の戒めを守ることこそが、最も大事な戒めであると考えていたと思われます。聖書の戒めを守ることは確かに神に従う者にとって大事なことです。

しかし、イエスは律法学者、パリサイ人が説いていた口伝律法といわれる、モーセの律法を形式的に生活に適応させようとする戒め(時に旧約の戒めと同等の様に語られていた)に関しては、否定的でした。ですから、律法学者、パリサイ人は、イエスは律法を守らない者としてイエスを非難していました。特に安息日規定に関して、イエスの教えと行動は、彼らにとっては律法を守らない人のものでした。

イエスがここで語られるお答えは、彼らが常に携帯し、大事にしていた「シェマー」です。そしてこれと対になるもの(二つ一組)として、レビ記19:18の言葉を示されます。

イエスの教えは、「大事な戒めの文字を守れ」というより、「愛せよ」に重きが置かれています。

申命記6:4、5 全身全霊を尽くして、イスラエルの神、唯一の「あなたの神、主を愛せよ」

レビ19:18  自分を愛するように「隣人を愛せよ」

律法学者はイエスが何と答えると想像していたのでしょうか。多くの戒めから、一つを選ぶことは難題だと思っていたのでしょうか。マタイとルカによる福音書では「イエスをためそうとして」質問したとあります。どのような回答をイエスがしても、あなたは律法を守っていない、と言いがかりをつけようとしていたのかも知れません。

「〇〇してはならない、〇〇せよ」という多くの律法を完全に守ることの出来ないのが私たちです。

しかし、神の戒めを自らの意思をもって破ることが罪であるとするならば、罪ある人とは、神を愛せない、愛さない、隣人を愛せない、自分を愛せない人の姿であると言えます。

「愛せない」ことや、「愛する」ことに人は悩み、心を痛めます。なぜならば、私たちは罪深い者だからです。

聖書を通して知る、「愛せよ」という戒め・命令は、神に対して、自分に対して、隣人に対して、この世界の命あるもの全てに対して、私たちの人生の最重要課題であります。

なぜなら、神は愛だからです。

さて、質問した律法学者は、その答えを聞いてどう思ったか、といいますと、「そのとおりです。まさにそのとおりです」と彼は感心して心から同意しています。「主は唯一であって、他に神はいない」、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして、主を愛する」「また隣人をあなた自身のように愛する」ことに。加えて彼はイエスの言われた「愛する」戒めは、「どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています」と賛同しています。(全焼のいけにえや供え物は、サドカイ人、祭司たちの管轄でした)。

なぜ神に捧げものをするのか、どうして戒めを守るのか。それは「神を愛する」「隣人を愛する」ことがその動機であることを、この問答でイエスは明らかにしておられます。「愛」が無くて、捧げものをすること、戒めを守ることは、中身のない“もみがら”の様なものです。「愛がなければ一切は無益です」(第一コリント13章)。

イエスは律法学者のその賢い返事(「愛することは、いけにえにまさる」)に、「あなたは神の国から遠くない」と言われました。律法学者はイエスの反対者でしたが、サドカイ人よりは神の国に遠くない人たちであったかも知れません。イエスはその生涯の中で、サドカイ人に対してよりも、パリサイ人、律法学者を厳しく叱責しておられます。サドカイ派がパリサイ派に優っていたからではなく、まだパリサイ人達には悔い改める余地が残っていたのかも知れません。聞く耳を持たな者たちには叱責の意味がありません。

イエスはここで、神を愛することと隣人を愛することを一つとして語っておられます。神を愛する者は隣人(ヨハネの手紙では、「兄弟」とあります)を愛します。神を愛すると言って隣人を愛さない者は、神を愛していません。なぜならば、神は愛だからです。

イエスの律法、教え、行動は、「神の愛そのもの」でした。当時の宗教的指導者に最大に欠けていたものです。私たちの日々の歩み、キリスト者の生涯は、「神の愛そのもの」の歩みでありたいと願います。

律法学者・パリサイ人は、神の戒めに対しては熱心であり、それが神を愛することだと考えていましたが、神の戒めを守らない者や神の戒めの中にない異邦人に対しては、彼らを教え導くというより、むしろ断罪していました。私たちキリスト者も心に留めておかなければならないイエスの教えです。

ルカによる福音書では、質問の内容も、二つの戒めを答えた人物も、この問答がなされたイエスの生涯の時期も異なってはいますが、彼は加えて「隣人を愛せよ」の隣人とは誰の事ですかと尋ねています。

イエスは彼の問いに対して、「良きサマリヤ人」という譬えを話されます。

ルカ10:30~35。

ある人が山道で強盗に襲われ、身ぐるみ剥がされ、半殺しにされて倒れていた。祭司が通りかかるが、避けるように通り過ぎて行った。次にレビ人が通りかかったが、彼も同様に見て避けて通り過ぎて行った。

そこに、サマリヤ人が通りかかり、彼を見て、かわいそうに思い、治療をしてやり、宿屋まで運び、宿屋の主人に怪我人の宿泊代と治療代を渡し、さらに費用がかかったら、私が払うと約束しました。

ユダヤ人とサマリヤ人の関係は、両民族間に憎しみがあります。

たとい罪深い相手であっても、敵対する者であっても、憎しみ合っている関係であったとしても、その者が困っているなら、傷ついているなら、憐れに思って(神の愛を動機として)、全力で助けてあげる。そして、最後の最後まで、面倒を看る「良きサマリヤ人」。そんなたとえ話が語られます。

イエスは言われます。「三人の中で、誰が強盗に襲われた人の隣人になりましたか」。律法学者は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えます。

イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と言われます。

私が中学生の時、教会学校の教師だった真鍋先生が、「あなたにとっての隣人とは誰ですか。地球を一周まわって隣の人です」と言われたことが心に残っています。助けを必要とする全ての人、世界中の人であることがわかります。罪人も、遊女も、収税人も、そして異邦人も、隣人なのです。イエスは「良きサマリヤ人」であられます。罪人の友となられたお方です。

では、この様な「愛」「神の愛」は私たちに果たしてあるのでしょうか。その愛はまさに、イエスの愛です。イエスの愛は条件付きの、「・・・だから」の愛ではなく、無条件の、「・・・でも」の愛です。

私たちはどうすれば良いのでしょうか。日々イエスを私たちの心の内に、私たちの歩みのうちにお迎えして、イエスの愛をいただくことです。イエスのおこころである御霊をいただき、御霊に満たされる以外に、神の愛に生きることはできません。

「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれています」(ローマ5:5)。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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