2月14日(日)礼拝説教全文
「神の右に座すイエス」 マルコ12:35~37
並行箇所:マタイ22:41~46、ルカ20:41~44
聖書協会共同訳見出し ダビデの子についての問答
イエスが十字架に架けられる前の、エルサレム入りしてからの最後の一週間の出来事を私たちはマルコによる福音書から読んでいます。
神殿の「宮きよめ」をされたイエスを、祭司長・律法学者・長老たちが捕えようとして、ことばの罠をしかけ、論争をいどんできました。しかし、イエスが神の知恵をもってみごとにお答えになるばかりか、問答を通して、神の真意をお語りになり、あえてイエスに質問する者はいなくなった、とあります。
イエスは「宮きよめ」をされた祭司の管轄する宮の庭で教えておられました。祭司たちも見て見ぬふりをせざるを得なかったと思われます。宮の中で多くの群衆が喜んでイエスの教えに耳を傾けていたからです。
本日は、その宮の中でイエスが人々に教えられた場面です。
イエスは人々に「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか」(:35)と問うておられます。旧約聖書には、キリスト(ギリシア語)(ヘブル語ではメシヤ)はダビデの子孫からお生まれになると預言されています。イエスの時代の人々も、ダビデの子孫からダビデのような王が現れ、ローマの圧政から救い出し、イスラエルを再興し、もう一度かつてのようなイスラエルの繁栄を与えてくれると信じていました。それがユダヤの人々が待ち望んでいたキリストでした。イエスをキリストだと信じる人は、イエスを「ダビデの子」と呼んでいます。(マタイ9:27、12:23、15:22、20:30~31)
律法学者たちも、民衆も、そのような意味で、やがて来られるキリストはダビデの子であると信じていました。イエスの血筋は事実、ユダの末裔、ダビデの子孫です。父ヨセフも、母マリヤもダビデの子孫です。しかし、律法学者や民衆のキリスト理解は正しかったのでしょうか。
確かにキリストはユダヤ人の王であり、ダビデの子です。
しかし、私たちは今知っています。キリストは、ユダヤ人だけでなく全世界の人々を罪と死と滅びから救い、サタンの支配から神の支配へ立ち返らせる救い主であることを。そして、このお方は、王であり、預言者であり、大祭司であり、そして、ここが今回最も大切なポイントですが、神の御子であることを。(キリストは油注がれた者という意味があり、旧約の時代、任職の為の油は、王と預言者と祭司に注がれるものでした。)
ここで問われるのは、キリスト理解、メシヤ理解です。イエスは誰なのか。イエスの任職は、神の力ある王、神の知恵たる預言者、メルキゼデクに等しい永遠の大祭司です。しかし、イエスというそのお方、そのご存在は、人となられて私たちの住むこの地に来て下さった神の御子です。それがイエスであります。
イエスは、まことに神であり、まことに人であります。
人は、神が人となられたという福音を信じません。それは学識ある者には無知のように聞こえるのかも知れません。まるで神話やおとぎ話のように聞こえるのかも知れません。しかし、私は、罪ある人間が崇拝の対象となる神や仏になるのは信じられませんが、神が人となられたことを、イエスの全生涯を通して信じます。
人は神になれるでしょうか。なれません。神は人になるでしょうか。なれるけれど、なる必要がありません。神が人になることは、人間的な考えでは愚かなことです。《ピリピ2:6~8》 しかし、神の愛がそうさせたのです。「神はそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりも滅びず、永遠の命を得るためです。」
イエスは詩篇110篇1節のダビデの歌について語られます。「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。」これはダビデが創作して歌ったものというよりも、神の霊に満たされて語った預言(神より預かったことば)である、と。そこに重点が置かれています。
「主は私の主に言われた。『わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。』」
① 「主は私の主に言われた。」主がどなたで、わたしが誰で、私の主がどなたか、わかりにくい言葉ではありますが、わかりやすく言うと、「父なる神は、私の救い主キリストに言われた」という内容です。神がダビデの主に言われたことばというものを、ダビデ自身が明確に理解していたかは定かではありません。神が(ダビデの主)イエスに言われたことばです。
② 「わたしがあなたの敵を、あなたの足の下に従わせるまでは」。これは期間をあらわしています。イエスの敵をイエスの足の下に従わせるまでという期間は、イエスが十字架と復活によって、キリストによる新しい救いの道を開いてから、再びイエスがこの地に来られて、生きている者と死んだ者とを裁く日までを示しています。今はその時です。
③ 「わたしの右の座に着いていなさい」
本日の説教題としたことばです。父なる神の右の座に着いていなさいというものです。
イエスは今、父なる神の右に座しておられます。使徒信条では、「我は信ず」と、キリストの教会が曲がった福音に陥ることがないように、歴史の中で繰り返し告白してきました。「…(主イエスは)三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。」
イエスは、天に上り、今、全能の父なる神の右に座しておられます。
「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」(ヘブル1:3)
ヘブル人への手紙は、神の右に座しておられるイエスが、今、その右の座においてどのような働きをされているかを書いています。ヘブル人への手紙をこの機会に読んでいただきたいと思います。イエスは永遠の大祭司として、私たちの救いの為に、ご自身の贖いの血を携えて、神の前にとりなしておられます。ご自分によって神に近づく人々を完全に救ってくださいます。私も教会員の信仰の歩みのためにとりなしの祈りをいつもしていますが、誰かに祈られていることは幸いですが、誰にも優って、イエスが神の右に座して、私たちの救いのために、あなたのためにとりなしをしてくださっています。
「罪に定めようとするのは誰ですか、死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、わたしたちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)
「私たちの大祭司は天におられる大能者の右に着座された方であり、人間が設けたのではなく、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」(ヘブル8:1~2)
「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう」とイエスは言われます。イエスは人としてはダビデの子ですが、神としてはダビデの主です。天地創造のはじめから、アブラハムの生涯の中にも、ダビデの生涯の中にも、ダニエルの時代の中にも、とこしえにイエスは彼らの主であります。そして今も、イエスは私たちの神、主です。
民衆の心変わりも、ユダの裏切りも、当時の宗教的指導者の敵意も、間違ったキリスト理解にあったのかも知れません。キリストは、全ての人を罪と、死と、裁きから救って下さるただひとりのお方です。そして、私たちが礼拝すべき、従うべき、とこしえに変わることのない主です。
今日もイエスを見上げ、感謝と賛美をもって、声を合わせて告白しましょう。「主は全能の父なる神の右に座したまえり」。
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