2月21日(日)礼拝説教全文
「主は心を見る」 マルコ12:38~44
* 第一サムエル16:7「人はうわべを見るが、主は心を見る」
(並行箇所:マタイ23:1~36、ルカ20:45~47)
(並行箇所 ルカ21:1~4)
聖書協会共同訳見出し 律法学者を非難する(:38~40)
やもめの献金(:41~44)
1、虚栄・傲慢の罪(:38~40)
イエスの宮の中での教えは続きます。
「律法学者たちには気を付けなさい。彼らは、長い衣をもまとって歩き回ったり、広場であいさつされることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです。また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします。こういう人たちはひと一倍きびしい罰を受けるのです。」
人は特に地位を得、偉くなると、人の評価や、評判が気になるようになります。イエスの時代の指導者、日本の政治家しかりです。偉い人だ、学問のある人だ、清い人だ、正しい人だ、と世間から評価され、そのような職業・地位に就くと、たとえそうでなくても、そのように振舞うようになっていきます。また、特別に地位がなくても、誰でも人は、人に良く見られたい、評価されたい、尊敬を受けたい、褒められたいと思います。
律法学者たちは、貧しい者を食いものにし、見えを飾るため、立派な恰好や、長い祈りをしています。
非常に厳しいイエスの非難のことばです。
カトリック教会の「7つの大罪(原罪)」では、私たちの内から出てくる罪の性質・傾向性を示しています。私はいつもこのような心に傾いたり、支配されたりしていないか自分自身を吟味します。
虚栄・傲慢 強欲 色欲 暴食 憤怒 嫉妬 怠惰
最初に虚栄・傲慢とありますが、神が最も嫌うのは、虚栄であり傲慢です。しかし、どんなに罪深い者、誘惑に脆(もろ)く失敗をしてしまった人でも、神の前にへりくだった心を持っているなら、悔い改めの機会があります。しかし、高慢・虚栄の者は、人目を気にしてへりくだることができません。否、へりくだる心を持っていません。イエスにへりくだった思いで救いを求めてきた人たちに比べ、いかに律法学者たちはイエスに対して礼がなく、高慢であったことでしょう。神の御子の前に、自分たちがいかに愚かで、神のみこころに沿った者でないか、彼らは自らを省みることができませんでした。
神に反逆したサタンは、虚栄と傲慢に陥りました。悔い改める機会がありません。サタンでさえ、真に神の前にへりくだる心があるなら、救われるやも知れません。それほどに、高慢は大きな罪なのです。
奉仕も祈りも、誰かに見られるためではありません。神に向かってする祈りは、立派な祈りをする必要はありません。(公の場で代表して祈る場合は、個人的にならないように祈りの手引きは必要かも知れませんが。)時に個人的な祈りであっても、その切なる真実な祈りは、共に祈る者の心を打ちます。
祈りは神が聞いていて下さる。人が見ていても、見ていなくても、神の奉仕には関係はありません。
2、レプタ2枚を捧げたやもめ
イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へお金を投げ入れている様子を見ておられました。
多くの金持ちが大金を投げ入れていました。
投げ入れている…神殿の婦人の庭の壁にラッパ状の受け口のついた献金の壺が設置されていた。礼拝に来た男性はこの献金の壺に献金を投げ入れて、奥の男子の庭に進んでいきました。金属製の受け口から、ジャラジャラと音をたてて貨幣が落ちていきます。
金持ちは大金を投げ入れていました。まわりの人に良く聞こえるように、勢いよく―「私はこんなにたくさんささげています」。イエスはその大金を投げ入れる金持ちに感心されたでしょうか。
そこにひとりの貧しいやもめがやってきます。
レプタ銅貨を二つ投げ入れいます。カランカランと乾いた音を立てて献金箱に入って行きます。
レプタ2枚は、1コドラント。1コドラントは、1デナリ(日当)の64分の1
約100円位 五十円玉2つ パン1~2個分の貨幣
イエスはそれをご覧になっていました。
人の人生は何によって支えられているでしょうか。お金でしょうか。それとも神様でしょうか。
50円玉が2枚、献金箱に落ちていきます。
このやもめは、どのような思いで、心で、それをささげたのでしょうか。
人はうわべを見るが、神は心を見られる。宮に来ていた人たちも、イエスの弟子たちも、献金している人々の様子を見ていたでしょう。しかし、イエスはささげている人々の心を見ておられます。
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われます「まことに、あなたがたに告げます(イエスが大事なことを話す前に言われる口癖、「良く聞きなさい」)」
「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」
人々は、弟子たちも、やもめのささげものを見て、何と恥ずかしいささげものか、と思ったかも知れません。
「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
イエスの教えは温かく、痛快です。
私はレプタ2枚のささげもののこの個所が大好きです。レプタ1枚ではなく、レプタ2枚というのが心に留まります。1枚は生活費の為に、1枚は主の為にでも良かったのですが、生活費全部をささげたというのです。
どうして女はそうしたのでしょうか。明日の食べ物を買えないという心配はなかったのでしょうか。
神への感謝の心です。彼女の心が神への感謝で満ちていたことがわかります。
明日の心配をしていなかった。その日の精一杯のささげものです。
この女のささげものは、その時だけではなかったと思います。彼女はそのように神にささげても、神が必要を満たして下さることを知っていました。日々、経験していました。神への全き信頼があります。
主は私たちの心を見られます。
私たちは自分の持っている物、あるだけ全部をささげることはできません。生活費全部をささげることはできません。持っているもの全部をささげなさい、そういう教えではないでしょう。
神への感謝であふれている心。明日を心配しない、神への全き信頼の日々。
そのようなあなたをイエスは喜んでくださるのではないでしょうか。
《祈り》どうか聖霊にいつも満たしてくださり、私にレプタ2枚をささげる心を私に与えてください。
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