3月7日(日)礼拝説教全文
「イエスは偉大な力と栄光を帯びて再び来る」マルコ13:14~27
ダニエル12:9~13
並行箇所:マタイ24:15~31 ルカ21:20~28
聖書協会共同訳見出し 大きな苦難を予告する(:14~23)
人の子が来る(:24~27)
1、大患難時代
「荒らす憎むべき者」とは誰か。
引照:ダニエル書11:31、12:11
先週、イエスがルサレム神殿の破壊について予告されたことを読みましたが、本日は、聖なる神殿で、他の神々に生贄をささげる儀式をする、汚れた行為をする者(神殿を汚す行為)についての予告です。
西暦70年に、神殿が破壊され、その場所が汚される行為が行われました。このエルサレム神殿は、歴史上、繰り返し戦争の引き金になっています。
* 現在のエルサレムの旧市街は、南東のユダヤ教地区、南西のアルメニア人地区(ギリシア正教・カトリック教会)、北東のイスラム教地区、北西のキリスト教地区とあり、4分割されています。キリスト教=日曜安息 ユダヤ教=土曜安息 イスラム教=金曜安息 エルサレムは3つの宗教の聖地となっています。
歴史の中で起こった聖地争奪戦争 638 イスラムによるエルサレム占領
1096~99 十字軍によるエルサレム占領 100年以上続く
1948 イスラエル独立戦争(第一次中東戦争) 第5次まで約50年
イスラエル独立宣言
聖地をめぐる戦争の歴史。
その予告の中で、「『荒らす憎むべき者』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように、読者よ、悟れ。それが誰であり、どのような時代であるかを精査しなさい。)・・・・」と、ここに聖書の中でも珍しい表記・注意書きがあります。事実、西暦70年のエルサレム陥落・神殿崩壊において「荒らすべき者がその聖なる場所を踏みにじる」出来事が起こりましたが、歴史上のその時だけを指しているのではありません。ダニエル書も、イザヤ書も、そして旧約聖書の他の預言書も、近い未来と、そして遠い未来(キリストの出来事)と、そして終末を指示しています。世の終わりの前兆は、歴史の中で繰り返されています。この解釈を慎重にせよ、と聖書は私たちに呼びかけているのです。起こった出来事として特定するのは困難です。
しかし、いずれにしても、戦争や混乱のただ中で、神を礼拝する場が汚されることは、神に従う者にとって、世の終わりのような出来事です。聖なる場が汚されるという事が起こったならば、(たとえば、教会が神を信じない者や、神に逆らう者によって迫害されて、踏みにじられるような事件が起こったならば、)
その時、「ユダヤにいる人は 山へ逃げなさい。屋上にいる者は、下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに戻ってはならない、それらの日には身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。これらのことが冬に起こらないように、祈りなさい。迫害の中に飲み込まれてしまわないように、逃げなさい」と勧められています。
普段の日常生活の中から離れて、山へ逃げなさい。そこの場所に留まってはならない。急いでその場所を離れるように、と警告されています。故に、身重であったり、乳飲み子を持つ者であったり、冬であったりすると、状況はさらに過酷になります。災害が冬に起これば厳しさが増し、野外では暮らせません。
そして、神が天地を造られた創造の日から今までにない、今後も決してないほどの苦難が来る、と予告されています。
大患難時代と呼ばれるものです。キリスト者が最後まで耐え忍ばなければならない(:13)時代です。神は耐え忍ぶことのできるようにその期間を縮めて下さっています。縮めて下さらなければ、誰一人それを耐え忍ぶことのできないような患難だと言われています。神は私たちを耐えられないような試練に会わせません。また、逃れの道も備えて下さいます。 * 黙示録に記されている最終的な7年の大患難時代においては、(歴史の中で世の終わりの前兆は繰り返されて来ていますが)大患難時代の前にキリスト者の携挙があります。
「その時、偽キリスト、偽メシアに惑わされてはいけない、信じてはならない。気をつけなさい」とイエスは再度警告をしておられます。偽メシア、偽預言者は、しるしや不思議なわざを行います。「しるし」や「不思議なわざ」に惑わされてはいけない。神のわざの外に、邪悪なわざがある。私たちはそれを見分けなければなりません。それが真か偽かを。やっかいなのは、他の神々の名ではなく、キリストの名を語って、しるしや不思議なわざが行われる事です。異教は見分けやすいが、異端は見分けにくい。サタンは巧妙で、天使に偽装する、とあります(第コリント11:12~15)。私は奇跡を信じます。心身の病の癒し、経済の回復、人間関係の回復など、主は驚くべきみわざを私たちの人生に与えて下さいます。しかし、私たちはそれをキリストのものか、偽キリストのものか見分ける必要があります。神のわざは、悔い改めと信仰に私たちを導くものです。人の行いや奇跡が、キリストの十字架の贖いと復活(永遠の命)よりも、前面に出ているものは注意が必要です。
2、イエスの再臨
このような苦難の後、天変地異の前兆があります。地球規模の自然災害(地球の温暖化、地球の深層大循環、大気汚染、森林の砂漠化等々)。異常気象、自然災害は地球全体に拡がっていく。天地が滅びる時が来ます。
このような時代に、身重の女、乳飲み子を持つ女は哀れです。神は赤子も、お腹の子も御国に入れて下さるでしょう。しかし、親としては、生まれてくる子供のこの世界がいかに苦難に満ちたものであるかを憂える以外にはないからです。世界の終わりの様相は人の住む世界が終わり、天地は滅びます。
「その時、人の子(イエス)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来られるのを、人々は見ます。」再臨(地上再臨)。イエスは約束されたように、再びこの地に来られます。
偉大な力と栄光を帯びて天から下って来られます。それを人々は見ます。
「すでに」と、「やがて」のもたらすもの。
私たちの信仰の歩みには、「すでに」と、「やがて」があります。
私たちの救い主イエスはどこにおられますか。神の右に座し、私たちのために、ご自身の贖いの血を携えて、神の前に執り成して下さっています。そのイエスは、私たちを聖霊の宮として、私たちの内にいてくださいます。肉眼で見ることはありませんが、すでに、聖霊によって、私たちと事実、共にいてくださり、世の終わりまでいつも共にいてくださいます。イエスが私の人生と共に歩んでくださるお方。それがインマヌエルとよばれるイエスです。それが、神の愛であり、救いです。それが、私たちキリスト者の平安であり、命です。イエスが人としてこの地に来て下さったのは33年間ですが、今やキリストは、キリストを信じる者の、どの国、どの場所の人とも共にいて下さいます。神は普遍のお方です。
しかし、「その時」とは、再臨の日を指して、人々はイエスを見ます。目に見えないお方ではなく、実際に見ます。人々は上を見上げて、イエスが雲に乗って天から下って来られるのを見ます。すでに、私たちは信仰の目をもって、イエスを見上げていますが、やがて、この目でイエスを見ます。それが再臨の日です。
再臨の主を待ち望む者には、心から信じてそれを待ち望むことによって、日常生活の歩みはどのように変わるでしょうか。世に埋没しません。声を大きくして宣教します。罪や悪を警戒します。
* 野坂昭如(「火垂るの墓」の作者)と大木英夫(聖学院 院長・理事長)の対談について。
「その時、人の子(イエス)は、天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者を四方から集める。」イエスは私たちをご自身の許へと引き寄せてくださいます。イエスはご自身のみもとへ、主にある者を召されるお方です。今、礼拝を行っているのは、そのひな形です。教会とはまさに、主に集められた者たち(「エクレイシア」 ギリシャ語)です。愛とは共にありたいと願うことです。
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