3月21日(日)礼拝説教全文
「イエスのおこころを察知した女(ひと)」 マルコ14:1~9
並行箇所:アタイ26:6~13、ヨハネ12:1~8
聖書協会共同訳見出し イエスを殺す計略
ベタニヤで香油を注がれる
次週28日、日曜日から受難週に入ります。その翌週は4月4日、イースターとなります。計らずも、礼拝でマルコによる福音書を読み進んで来て、今、イエスの生涯の最期にさしかかり、十字架へ向かう出来事を読んでいます。
エルサレム入城では、イエスの思いと、王を迎える民衆の思いの乖離があります。
又、イエスに従ってきた弟子たちの姿、その有頂天さも、イエスの思いとかけ離れています。
宮きよめ、問答を通して、イエスの敵対者、祭司長、律法学者たち、長老たちの殺意はますます大きくなっていきます。全てが、イエスが十字架に向かって行かれる要因となっていることがわかります。イエスは、ただすぐ前にご自身に迫っている十字架を見ておられます。
1、イエスを殺す計略(::1~2)
14章からイエスの生涯は、一気に十字架へ向かって進んでいきます。予定していた祭司長たち、律法学者たちによるイエスを殺すための計略も、思いもかけず加速していきます。
イエスの十字架の背景には、常に「過越しの祭」があります(除酵祭=種抜きのパンを食べる日)。それは、出エジプトを記念するユダヤ最大の祭りで、小羊の血が家の入口の鴨居と二本の柱に塗られることによって、神の怒り、神による滅びが過ぎ越しました。血の塗られていない家の全ての初子(王の子から奴隷の子、家畜にいたるまで)が神の裁きによって打たれました。どのような神の災い、奇跡によっても救出されなかったユダヤ人は、このしるしを通して、エジプトの奴隷生活から解放さます。その、神がイスラエルを救い出された大いなる日(出エジプト記12章)を記念する祭りです。
イエスの十字架の意味を知る上で、過越しの出来事を読むのは大事なことです。小羊の犠牲による血を、神様がご覧になって、滅びることなく救われる、という歴史的な事実・出来事があります。
祭司長、律法学者たちは、どのようにしてイエスを騙して捕え、殺すことができるか懸命に話し合います。「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」とあります。大事な祭りの中で騒ぎを起こしてはならないということです。明確に彼らの計画は祭りの後で、というものです。しかし、そのタイミングは、イエスの弟子ユダの裏切りによって、この時にしかイエスを捕える機会はないと、過越しの祭りのただ中で、という形に変わります。人の計画ではなく、神の御計画が実現します。
2、イエスへの香油の注ぎ(:3~9)
イエスと弟子たちを歓迎して、ベタニア(エルサレムから数キロの町)のツァラアトに冒された人シモンの家で食事の席が用意されていました。ヨハネによる福音書では、過越しの6日前とあり、マタイ、マルコによる福音書とは時系列が違っています。その食事の席に、おそらく、マルタも、マリヤも、そしてイエスが死者から生き返らせたラザロも同席したと考えられます(ヨハネによる福音書から)。マタイもマルコも一人の女がと記していますが、ベタニヤのマリヤのことです。
聖書の中には、マリヤという人物が混同されやすいですが3人出て来ます。イエスの母マリヤと、イエスに7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリヤ(ルカ8:1)、そして、ベタニヤの3姉弟の妹マリヤです。3人は区別しておきましょう。
イエスは、ガリラヤからエルサレム来られた際には、ベタニヤのマルタ、マリヤ、ラザロの家をよく訪れていたことがわかります。イエス一行を迎えた彼らの家は小さくなかったと思います。又、イエスや弟子たちとも彼らは年齢的にも近い者達だったでしょう。
どうして、マリヤはこの食事の席で、高価な香油を全てイエスに注いだのでしょうか。
純粋で、非常に高価なナルドの香油。石膏の壺に入っていた、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。ヨハネによる福音書では、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、とあります。ヨハネでは、1リトラ=328gが300デナリ(日当の300日分)、数百万円ですから、1g10,000円位。石膏の大きさは少し大きめの缶ジュースくらいのもの。缶ジュースの大きさで300万円となると、非常に高価と言っていいものでしょう。それが、家にあったというのですから、この姉弟の家はかなり裕福であったかも知れません。
それを残らず、全部イエスに注ぎました。
マリヤは、イエスのただならない様子を意識しないで感じ取っていたかと思います。もうこのお方にお会いできるのも最後かも知れない。居ても立っても居られない。イエスへの愛、マリヤのイエスに対する最高のもてなしであったと考えられます。民衆や十二弟子でさえ受け止めることのない、霊的な感性を彼女は持っています。精一杯の「イエスを愛する愛」「イエスへの感謝」がここにあります。
しかし、そこにいた人たちは、憤慨してマリヤを責め立てます。
ナルドの香油が非常に高価なもので、それを一回で、全てをイエスに注いでしまったことについて。
もったいない。使い方が間違っている。なぜ、全部使ってしまうのか。
ヨハネによる福音書では、「この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」という言葉は、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテのユダのものであると書かれています。ユダの言葉に、同席していた人々も同意して憤慨し、マリヤを厳しくとがめます。このような高価な香油は、少しずつ使うものであって、いっぺんに使うようなことは愚かしい行為。香油を無駄にしてしまった。
イエスの弟子や、男性たちから責め立てられるマリヤは、どうしてよいのかわからなかったでしょう。ユダは、イエスの喜ばれる正しい発言をしたと思っていたかも知れません。
イエスはこのマリヤの行為をどのように受け止めたでしょうか。
ところがイエスは「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのためにりっぱなことをしてくれたのです」と言われました。イエスはマリヤを責めるのではなく、褒められました。
貧しい人たちは、いつもあなたがたと一緒にいて、いつでも彼らに対して施し、良い行いをすることができます。しかし、わたしはいつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。イエスはご自身が間もなく、世を去る時が近づいていることを知っておられます。マリヤは今しかできない、イエスへの愛と感謝をささげたことがわかります。
そして、この香油を塗るというマリヤの行為を、埋葬の用意を前もってしてくれたとイエスは言われます。マリヤが香油を注いだのは、そういう意味ですと。周りにいた人たちも驚いたかも知れません。マリヤにそのような自覚があったかはわかりませんが、誰ひとりイエスの十字架、死を覚えず、イエスのみ思いを察知できない中で、マリヤはイエスの葬りの準備をしたのです。
このマリヤのした事は、世界中に福音が語られると共に、語り伝えられ、「ナルドの香油」のエピソードは記念となります。それほどに、大きな神の仕事をマリヤは成し遂げたと言えます。
霊的な洞察力
私たちは自分の思いや、願いをいつも主イエスに聞いていただいています。
愛するイエスのみ思い、お心をどれくらい、聖書から聞いて、知って、それを行っているでしょうか。
聖霊を受けて、聖霊に満たされてイエスのおこころ知り、このコロナ禍の中にあっても、今神が成そうとしている神の御計画に参加する私たちでありたい。そのように心から願うものであります。
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