4月11日(日)礼拝説教全文
「裏切りとつまずき」 マルコ14:10~31
見出し ユダ、裏切りを企てる(:10~11)
過越の食事をする(:12~21)
主の晩餐(:22~25)
ペトロの離反を予告する(:26~31)
ヨハネによる福音書によって受難週、イースターを経て、再びマルコによる福音書へ戻ります。
「イエスを知る素晴らしさ」 というテーマで2020年1月からマルコによる福音書を読み始めました。
イエスは律法学者たちのようにではなく、権威ある教えを語られました。ことば
イエスは病を癒し、悪霊を追い出し、力あるみわざをなされました。 行い
イエスは貧しい者、罪人の友となられた。憐みと愛にあふれたお方です。ご性質
このお方が、私達の主です。
イエスは十二弟子を特別に選んでおられます。
イエスが選ばれた弟子なので、特に心を注いで、師として、主として、彼らを教導されたことでしょう。
神がアブラハムを選ばれ、イスラエルの十二部族を祝福されたのと同じです。
彼らを祝福の基として、全世界を祝福する為にです。
イエスの弟子たちは、特別に優秀な人達であったとは考えられません。学識や理解力、特別な才能があったのでもありません。普通の人達です。しかし、イエスは愛情をひとりひとりに注いで、3年間、寝食を共にしてご自身を示されました。弟子たちもイエスを愛し、尊び、イエスに従う事がこの上もない喜びであったことでしょう。イスカリオテのユダも、一番弟子のペテロも、他の弟子たちもそうであったと思います。
本日の聖書箇所で、ユダはイエスを裏切る決意をします。銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をします(マタイ26:15)。銀貨30枚は以前お話ししましたが、奴隷一人分の値段です。
ユダがイエスを裏切ったのはなぜでしょうか。
ユダは金の誘惑に負けたというのもあるかも知れません。ヨハネは「ユダは盗人であり、金入れを預かっていて、その中身をごまかしていた。」(ヨハネ12:6)と書いています。マタイでは「あの男を引き渡せば、幾らくれますか」とイエスを売り渡す金銭を要求しています。
他のユダヤ人と同じく、イエスはローマから民を解放してくれる王ではない、と落胆し、見限ったという高尚な理由をつける人もいます。
又、先のマリアの香油注ぎの件で、イエスが自分の意見を聞かず、アリアを褒めた事で恥をかいて、一時的に激しい感情を抑えられず、そんな行動をとってしまったのかも知れません。
ルカ、ヨハネによる福音書は、「サタンが入った」と記しています(ルカ22:3、ヨハネ13:2)。
サタンが入るような、彼に何らかの思い、隙があったのでしょう。
どのような理由にしても、ユダは取り返しのつかないことをしてしまいます。そして、イエスが捕らえられ、イエスが有罪になったのを知って後悔します(マタイ27:3)。「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。そして銀貨30枚を返そうとしますが、祭司長たち、長老たちが受け取らないので銀貨を神殿に投げ込んで、神殿から出て行き、首をくくって自殺します。
もう引き戻せないのです。自分のしてしまった罪の大きさに彼は耐え切れず、自らの命を絶ちます。
ユダは世界の中でも、歴史の中でも裏切り者の代名詞のようになります。
ユダはイエスを愛していなかったのでしょうか。イエスとの3年間は何だったのでしょうか。きちんと指導できなかった師の甘さでしょうか。そうではないでしょう。
ペテロも同じです。ペテロはどうしてイエスを三度も知らないと言ったのでしょうか。人を恐れてでしょうか。兵士に剣で立ち向かった勇ましさはどこへいってしまったのでしょう。「たといご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどと決して申しません」と言った彼の決意はどこへいったのでしょう。
自分の命が惜しくなったのでしょうか。自己保身でしょうか。ペテロの心に恐れが入り込んだのは確かです。
ペテロはイエスを愛していなかったのでしょうか。イエスが育てた一番弟子、岩(ペテロ)は、こんなにも脆い人物だったのでしょうか。そうではないでしょう。
他のイエスの弟子たちはどうでしょうか。「弟子たちは、皆イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)。
皆。彼らはイエスを愛していなかったのでしょうか。イエスの弟子たちは、皆惨憺たるものです。
イエスは全てを知っておられます。ユダがご自身を裏切ることも。ペテロがご自身を完全に否定することも。
それを十分に知った上で、この最後の晩餐が執り行われるのです。イエスは最後まで(極みまで)弟子たちを愛し抜かれます(ヨハネ13:1)。そして弟子たちの足を洗い、パンを裂いて弟子たちに与え、ぶどう酒を取り、これを与えます。「これは私の身体です。」「これは私の契約の血です。」
世界で初めの聖餐の席に、ふさわしい者は誰でしょうか。イエスを裏切る者、否定する者、逃げ出す者の集まりです。イエスは全てをご存知でした。しかし、イエスのまなざしは変わることはありません。最後まで愛し抜かれます。真夜中、大祭司の中庭で審議を受けておられたその場所で、ペテロが三度イエスを知らないと言った時、イエスが予告されたように鶏が二度鳴きます。まさにその時、主は振り向いてペトロを見つめられます(ルカ22:61)。そのまなざしは、厳しい裁きや落胆のまなざしだったでしょうか。いや、最後まで変わらず、愛し抜かれたイエスのまなざしであったでしょう。変わらないイエスの愛のまなざしは、ペトロを我に返らせ、ペトロは主の言葉を思い出し、外に出て、激しく男泣きします。
どうしてなのでしょう。人の強さ、弱さの問題ではなく、それは神の定められたご計画であり、聖書のことばが成就するためです。イエスの十字架の苦しみ、贖いは、イエスがひとりで背負わなければならなかった。支払わなければならなかった。誰もイエスの十字架に、今は、ついて行くことができないのです。
ユダは自ら命を絶ち、ペトロは悔い改め、主の憐み、愛によって立ち直りました。どちらもイエスを裏切った者で、その後が比較されることもあります。イエスは、ユダについて「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」非常に辛辣な言葉です。イエスにここまで言われた人はいないでしょう。
ユダを非難したり、弁護するつもりもありません。ペテロや弟子たちもそうです。人の子を裏切るその罪の大きさ、十字架へ向かわせる役割の重さは、まさに生まれなかったほうが、その者のために良い という程のものです。ユダはパンとぶどう酒を受けて、出て行きます。誰よりも哀れに思ってイエスが目を注がれたのは、ユダの後ろ姿ではなかったでしょうか。
先ほど、「弟子となし給え」という賛美をしました。昔から歌われていた歌です。これが新聖歌になる前の聖歌は5番まであり、その4番は「ユダにはなるまじ」という歌詞でした。わたしはこの歌詞が好きではありませんでした。ユダをひどい弟子だという思いより、なんて可哀想な人だろうと思っていたからです。この歌詞はなくなればいいのになぁと思っていたら、本当に新聖歌ではなくなりました。
ユダのようにはならないと決意するより、むしろ、私の内にもユダのような弱さがあります。又、いつユダのような行動をしてしまうかわかりません。どうか、あなたのしもべを引きとめて、罪から守り、これに支配されることのないようにしてください。わたしの内側をきよめて、あなたの真の弟子にしてください という願いがあるからです。
私達は誘惑に脆く、人を恐れる者です。そうです。私たちの願いはひとつです。主イエスよ、私の内にあなたを迎えます。あなたが共にいてください。あなたが私をご支配ください。聖霊の宮としてください。
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