4月18日(日)礼拝説教全文

マルコ14:32~42 「御心のままに」

並行箇所:マタイ26:36~46、ルカ22:39~46、ヨハネ18:1

見出し ゲッセマネで祈る

私たちはどのように神に祈っていいのかわかりません。イエスは弟子たちに祈りを教えられました。イエスの生涯から私たちは祈りについて多くの事を学びます。イエスご自身、その公生涯は多くの群衆に囲まれ、多忙な中にありましたが、静かな場所へ行っていつも祈っておられます。(マルコ1:35)

本日の聖書箇所は、主イエスが十字架に架けられる前夜の、ゲッセマネの祈りの記事です。

ゲッセマネ(ヘブル語でオリーブ油しぼりの意味)は、エルサレムの都から、谷を隔てて向かいの丘オリーブ山に、オリーブの木が多く植えてある園がありました。イエスはエルサレムに来られた時は、その場所を集合場所とし、その場所で弟子たちを連れて行って祈られました。祈りの園生。

ゲッセマネで、イエスが激しい苦しみを覚えながら祈られた出来事が、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記されています。イエスの生涯において祈りは、父なる神との麗しい、豊かな交わりの時間でした。そこで自らの思いを語り、父のおこころを聞き、共にいる喜びを味わわれました。しかし、ゲッセマネの祈りは苦しみの祈りです。

最後の晩餐を終えて、イエス一行はゲッセマネの園へ行きます。弟子たちに、ご自分が祈っている間、座って待っているいるように言われ、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、さらに園の奥へと入って行かれます。三人にも、目を覚まして祈って待っているように告げて、少し先へ進まれます。ペトロとヤコブとヨハネには、イエスの祈りのことばが聞こえていたでしょう。

8人の弟子、3人の弟子、そしてさらに先にイエスという順序があります。もうひとりの弟子、イスカリオテのユダは、今はこの場所にはいません。イエスは、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われます。ご自身と共に、目を覚まして祈っていることを求めておられます。これからイエスが向かう苦難の道に、弟子たちも目を覚まして共に祈るように、という思いではなかったでしょうか。

イエスは苦しみ悩み始め「私は死ぬほどに苦しい(別訳 悲しい)。」「わたしは悲しみのあまりに死ぬほどです。(新改訳)」「目を覚ましていなさい。」と三人に打ち明けておられます。イエスが死ぬほどに苦しい、悲しいと言われる苦しみ、悲しみは、どれほどのものであったでしょう。その苦しみの大きさは、想像を絶しています。

「御手と、御足のみか、心も裂けて、きみは死に給えり我らの為」という賛美(新聖歌109)がありますが、イエスの痛み、渇きは身体的なもの以上に、その心の痛みであったでしょう。

そして、イエスはひとり、離れた場所で祈られます。地にひれ伏し、父よ、あなたにはおできにならないことはありません。できることなら、「この時」を過ぎ去らせくださるように、と祈られます。「この時」というのは、十字架に向かう道です。イエスにとってこの苦しみが大き過ぎて、できれば逃れたいという願いです。

ある人は、イエスを非難して、イエスも泣き言を言っているではないか。これが神の御子なのか。本音は十字架にかかりたくないのではないか、と。非常に愚かな、身勝手な発言をします。

私は、イエスの十字架の苦しみは、イエスでさえ、負いきれません、逃れたいのです、とおっしゃる程に、厳しく、辛く、険しいものであったとしか、このゲッセマネの記事を読んで思うことができません。ましてや、イエスを非難するなど、あり得ない話です。十字架の道は容易いものではなく、私の罪の赦しの為に受けて下さったイエスの苦しみは、世界中の全ての悩み、苦しみ、悲しみを足しても届かない苦難であったとしか言う事ができません。

イエスは祈られます「アッバ、父よ。あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」。

「お父さん、」(アッバ=ヘブル語。幼い子供が父を全く信頼して、親しく呼びかける言葉)「あなたは何でもおできになります。」神には不可能なことはひとつもありません。父なる神への信頼。常にイエスは、そのようにして父なる神に願い、祈られました。父はいつも子の願いに答えてくださるのです。

「この杯を私から取りのけてください。(それが私の望みです。)」「この杯」(参照;「この時」14:35)とは、十字架の苦難です。世界中の人の罪故の苦難が満ちた杯です。イエスはこの苦難を最後まで、最後の一滴まで飲み干さなければならないのです。

しかし、父なる神は何もお答えになりません。

「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。」「どうかこの杯をわたしから取りのけてください。」三度祈られます。父なる神はお答えになりません。

イエスの願いと、父なる神の御心。

イエスは祈られます。「しかし、私の望みではなく、御心のままに(なさってください)。」

私の願いではなく、あなたの御心のままになさってください。父なる神にお委ねし、お任せする祈りです。

父なる神の御心は、ひとり子を見捨てて、十字架で殺すことでしょうか。その通りです。しかし、言葉が足りません。神の御心は、罪人が自らの罪を悔い改めて、ひとりも滅びることなく、救われて、永遠の命に与かること、ご自身のもとに、父なる神に帰って来ることです。

罪の支払う報酬は死です。聖なる神の御前に、罪は死をもって償われなければなりません。罪は、苦しみ、痛み、悲しみ、叫びをもって報いなければなりません。罪人は神の裁きから逃れることはできません。生まれながらに人は、誰一人、神の御前に義人として立つことはできません。

しかし、私達罪人をも愛する神は、その罰を受けて滅んでしまうことを願っておられません。救われることを願っておられます。ただひとり罪のない神のひとり子が、世界中の人々の罪を身代わりに背負って、苦しみを受け、死んで下さったのが、イエスの十字架の出来事なのです。

それは、全ての人々の救いの為であり、わたしの救いの為であり、あなたの救いの為なのです。

イエスは祈られます。「しかし、私の望みではなく、御心のままに(なさってください)」

弟子たちはひと時も、一時間もイエスと共に目を覚まして祈ることができませんでした。まぶたが重くなり、眠っていました。彼らは、イエスにどう言えば良いかわかりませんでした。共に祈れないのです。「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい。心ははやっても(燃えていても)、肉体は弱い。」イエスの十字架の道、ゲッセマネの祈りは孤独です。弟子たちが一人もイエスの祈りについて行けないのは、異常事態です。しかし、ここでも、イエスがひとりで十字架に向かわなければならなかったことがわかります。今は、弟子たちはついて行けません。

主よ、祈りについて今日も教えてください。

父なる神に、「あなたにはできないことはありません」、と全幅の信頼をもって祈りましょう。神は全能のお方です。

自らの願いを神に聞いて頂きましょう。率直に、遠慮せずに、飾らずに、話しましょう。神は憐み深いお方です。

そして、私の願いと、神のみこころを交換しましょう。私の願い、思いではなく、あなたのみことばに従います。

「私はあの人を愛せない」→「隣人を愛しなさい」→「あなたのみことばに従います。あなたの御心のままに。」

* 新年度、新教団委員長の所信表明の中で

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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