4月25日(日)礼拝説教全文

真夜中の裁判 マルコ14:43~65

裏切られ、逮捕される(:43~50)

一人の若者、逃げる(:51~52)

最高法院で裁判を受ける(:53~65)

ゲッセマネの祈りの続きです

「見よ、私を裏切る者が近づいてきた」

イエスの弟子、イスカリオテのユダが、祭司長・律法学者・長老たちが遣わした者たちと共に、剣や棒(たいまつ)をもって近づいてきます。ユダは誰がイエスであるかを示すために合図を決めて、イエスに近づき、接吻をします。ペトロが剣を抜いて大祭司の僕に切りかかり、耳を切り落としますが、イエスがそれを諫め、留めます。

「これは聖書が実現するためである。」とイエスは言われます。

弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げます。 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ4つの福音書にゲッセマネでのユダの裏切りの記事があります。少しずつ内容に違いはありますが、イエスは臆することなく、自ら進んで、のように堂々と捕えられ、弟子たちが一人も捕らえられることのないように、その場を去らせます。

マルコの福音書にだけ、一人の若者が捕らえられそうになって着物を引っ張られ、服を脱ぎ捨てて裸で逃げたと記されています。イエスの弟子たちについて行った一人の若者は、この福音書の記者、青年マルコであると伝承されてます。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、4つの福音書からイエスが審問を受けられた場所がわかります。裁判の流れ。

深夜

大祭司カヤパの舅アンナス邸でイエスを審問する(ヨハネ18:12~)

大祭司の官邸で大祭司カヤパは、サンヒドリン70人議会を招集して裁判を行う(マルコ14:53~)

イエス、暴行を受け(翌朝まで投獄される)(マルコ14:63~65)

明け方

サンヒドリンの議会で審問を受ける。イエスの死刑を決定する(ルカ22:66~)

ピラトの前に連れて行かれ審問を受ける(ルカ23:1~)

ピラトはヘロデのところへイエスを送り、ヘロデの前で審問を受ける(ルカ23:6~)

ピラトへ戻され、審問が再び行われ、民衆の前で最終的な裁判が行われる(ルカ23:13~)

真夜中の裁判

真夜中にサンヒドリン議会(最高法院)が大祭司カヤファによって招集され、裁判が行われます。

真夜中にこれだけの人々が招集され、裁判が行われるのは異例な出来事です。この機会を逃してはならない、一刻も早くイエスを処刑せねば、と事を急いでいた状況が伺えます。又、時は過ぎ越しの祭りの只中です。祭りの最中、公に昼間に民衆の前で裁判を行う事はできません。民衆の心次第で、どのような混乱が起こるか計り知れないからです。

祭司長と最高法院の全員は、死刑にするためにイエスにとって不利な証言を求めます。イエスがした悪事について誰も証言する事ができません。イエスに対して偽証をする者が次々に証言します。その証言も一致しません。ある数人の者は、イエスが神殿を汚す言葉を語ったと証言します。しかし、それも神殿を汚したことばなのかはっきりとしません。

次々と有る事、無い事の証言が、イエスの前で為されます。全てはイエスを訴える証言です。しかし、知ってください。イエスは黙ってその証言を聞き、何もお答えになりません。

イザヤ書の53章7節「彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊の様に、口を開かなかった」

裁判の場で、自らに罪を問われ、その罪に対する証言が偽証ばかりであったなら、どうでしょうか。弁明をしないでしょうか。普通裁判であれば、「異議あり!私は無実だ!」と叫ぶものではないでしょうか。嘘をつかれて陥れられる、どうにもならない怒りが、悔しさが込み上げてくるものです。

しかし、イエスは黙っておられる。神の知恵を持っておられるイエスならば、どんな質問にも誰も反論することなく論破されたイエスなら、無罪を証明する事は容易かったでしょう。しかし、今日知って下さい。イエスは黙っておられます。何ゆえか。神のみこころに従って、過越しの、世の罪を取り除く神の小羊として、ご自身を十字架に捧げる為にです。

大祭司カヤファはイエスに尋ねます「お前はほむべき方の子、メシアなのか」。

「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」(マタイ)

「お前がメシアなら、そう言うがよい」「では、お前は神の子なのか」(ルカ)

3つの福音書を総合して、イエスになされた大祭司の質問は、「あなたは神の子、私達が待ち望んでいるキリスト、メシアなのか」というものです。

イエスは、どんな証言に対しても反論はされませんでしたが、この質問には答えます。

「私がそれである」この言葉は、日本語では表しにくい。「エゴー・エイミ(ギリシア語)」英語ですと Iam. わたしはある、となります。ヨハネによる福音書では、「わたしは道・真理・命である。」「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしはよみがえりであり、命である」数多く、イエスがご自身を宣言する時に使われています。

エゴー・エイミは、当時の宗教的指導者にとっては、強烈なことばです。神の呼び名、「わたしはある、いる(出エジプト3:14)」に起因する神的なことばです。大祭司も神の名を「ほむべき方」と呼んでいます。大祭司が自分の着ていた衣を引き裂いて、怒りに震えて「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう思うか。」

「あなたがたは、人の子が力ある方の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」「わたしがそれである。」

それは、自らを神の子メシアと宣言するだけでなく、神と等しい者とすることばであり、衣を引き裂いて、大祭司の怒りは激しい感情に表れます。

最高法院はイエスを死刑にすべきだと決議します。

イエスのことばは真実です。彼は偽ることができません。

イエスは、神の御子、キリストです。罪のない、世界でただひとりの聖いお方です。私たちを罪と死から救う、ただひとりの救い主です。

人々の非難と偽証の中、黙々と、又、堂々と、その真夜中の、不当な裁判を忍ばれたイエスを覚えましょう。

又、力強く自らが神の御子、キリストであると宣言され、神の右に座し、やがて来たり給うイエスを信じ、このお方を主と仰いで従いましょう。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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