5月2日(日)礼拝説教全文
「真の礼拝者」 ヨハネ4:19~26
本来でしたら、本日は礼拝の後に2021年度の教会総会が開かれ、一年を振り返り神に感謝をささげ、新しい一年に向かって神のおこころを求めながら計画を立てていく時でもあります。毎年、「竹田先生、教会の一年の指針・ビジョン、みことばをお願いします。」とリクエストされます。主に祈りながら、毎年、そのような意味で、聖書のことばに耳を傾ける時をいただきます。
昨年は第二コリント5:20から「わたしたちはキリストの使節」というみことばをもって、キリストの使節とは何か、その自覚をもって一年を歩みたいと、お話しさせていただきました。キリスト者の、教会の大きな使命のひとつは「宣教」であります。これは世が続く限り変わりません。
今思わされていますのは、昨年一年、新型コロナ感染拡大によって世界中のキリスト教会が通常の働きができなくなった中、今年度もこの中を進まねばならないということです。これによって拍車をかけて、私達の信仰が弱らないように、教会の宣教の働きがとどまってしまわないように、落胆しないように、失望しないように、そのように願っています。
教会堂に集まって礼拝をすることが困難の中にあります。自宅礼拝を余儀なくされています。やがて、皆で一同が集まって、顔を合わせて礼拝する日が来ることが私たちの願いであり、祈りであります。しかし今、私達がそれぞれの場所でささげている自宅礼拝が、真に祝福されるように。礼拝が確立され、祝福され、主に向かう信仰が弱ってしまわないように、信仰がなくなってしまわないように。そのように祈っています。
-そこに主のための祭壇を築く-
「ダビデはそこに主のための祭壇を築き、焼き尽くすいけにえと会食のいけにえとを献げた。主はこの国のために祈りに応えられ、イスラエルを襲った疫病はやんだ」サムエル記下24:25
災いの理由はともあれ、疫病禍の中で、主が指示し、ダビデが取り組んだ内容です。
そこに主のための祭壇を(自分で犠牲を払って)築く、これが新年度の取り組みです。
この第二サムエル記の箇所は、元旦礼拝で説教しましたし、皆様に配布する総会資料にも書きましたのでよくご覧ください。
本日は、ヨハネ4章から、「世界中のどこででも、父を礼拝する時が来る。霊と真実をもって礼拝する時が来る。父なる神はこのように礼拝する者を求めておられる」とイエスが言われた箇所に導かれています。
この箇所は、イエスとサマリヤの女との井戸のそばでの出会いが書かれています。
井戸の水をサマリヤの女に求められたイエスとの話のやりとりが書かれています。そして、決して渇くことのない「生ける水」についてイエスは語られます。
19節から、唐突の様に、礼拝する場所について話題が変わります。
サマリヤ人の女と、ユダヤ人であるイエスの「ユダヤ人であるあなたが、サマリヤの女の私に、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」ユダヤ人とサマリヤ人とは交際していなかったからである(:9)に端を発する内容です。
「生ける水を受ける事」と「真の礼拝者」と違った話題の様には聞こえますが、イエスから決して渇くことのない生ける水を受け、それが私達のうちで泉となって、永遠の命の水がわき出る(:14)ことと、霊とまことによって父なる神を礼拝するというのは、全く別のようで、実は一つのテーマです。
19節からは、今までイエスを警戒していた女が、イエスを預言者として見る心の変化があります。
ユダヤ人とサマリヤ人が交流を止め、敵対していた歴史的背景があります。
イスラエルは、かつて、同じヤコブの子供たちの部族でありながら、北イスラエル、南王国ユダに分断していました。北イスラエルは、サマリヤのゲリジム山を礼拝の場所とし、南王国ユダは、エルサレムを礼拝の場所としていました。どちらもが、真の礼拝の場所は、私たちのこの場所だと主張していたのです。以前にもお話ししましたが、エルサレムの神殿礼拝は、ユダヤ人にとっては、律法・割礼・神殿礼拝を重んじて、彼らの「神の民たる尊厳」の拠り所となっていたものです。「あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(:20)
ここで、驚くべきイエスの答えが返ってきます。
「山の神殿でも、エルサレムの神殿でもない。あらゆる国民が、あらゆる場所で礼拝するときが来ている。」南と北が分断されるのを統一するというのでもない。世界中が世界中のあらゆる場所で、父なる神を礼拝する時が来た!と言われているのです。ユダヤ人が、サマリヤ人が、ではない。このまことの神、父なる神を礼拝するのは世界中の人であり、世界中の場所で、というものであります!
サマリヤの女は、イエスに良い質問をしたなと思わされます。サマリヤ人の女が、ユダヤ人のイエスに、礼拝する場所について質問したのは、素晴らしい質問だと思います。良い問いは、素晴らしい神の知恵をもたらします。
イエスは言われます。私たち(イエスと弟子たち、ユダヤ人)は真の父なる神を知ってる。ユダヤ人から救いは来る。ユダヤ人、サマリヤ人という限られた者ではなく、世界中の人が救いを受けて、まことの神を知って、「まことの礼拝する者たちが、霊と真実をもって、父(今まで知らなかったこのお方)を礼拝する時が来る。今来ている」今、来ています。それが、キリストによって救われたあなた、私、私達なのです。
私たちは、ユダヤ人(キリスト・イエス)から救いを受け取って、「霊と真実によって礼拝する」礼拝者なのです。
1、霊によって
霊によってとは、神との霊的な交わりです。救いとは、罪赦され、神との交わりの回復が始まることです。十字架の贖いによって私達の罪が赦され、取り除かれ、神と私達の隔てが取り除かれ、神との生ける交わりが回復する。これが救いであり、永遠の命です。救われた者とは、神を礼拝する者へと変えられた者たちのことです。
霊的な回復と逆行するのは肉的なものです。神は霊ですから、目に見えない世界を信仰の目をあげて私たちは主を仰ぎ見ます。そこに神の国とその義とがあります。
私たちは、神が回復して下さった霊によって神との交わりをする存在と変えられました。
「神に受け入れられる、生きた、聖なる供え物として(ローマ12:1)」キリストの十字架の贖いによって、神の前にそのように出る、近づく、立つことのできる者とされたのです。
* ぶどうの木と枝のたとえ
自宅での礼拝も、神との出会いの場、人格的な、霊的な交わりの時となりますように。
2、真実をもって
礼拝は、心を尽くし、思いを尽くし、知力を 精神を尽くして主なるあなたの神を愛し、主を全身全霊で礼拝しましょう。(申命記6:5)
礼拝は、最上の献物、最高の賛美、心をこめて自分自身をささげる時です。神の前に「今日も、私をあなたの前にお献げ致します。今週もあなたのものとして私の人生を導いてください」献身を、その告白を繰り返しささげていきましょう。
神はこのような礼拝者を求めておられます。
「キリスと呼ばれるメシアが来られたら、私達に一切のことを知らせてくださいます。」
イエスはお答えになります。
あなたと話している、「この私が、それである(エゴー・エイミ)」
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