5月9日(日)礼拝説教全文

「イエスは我らの王」 マルコ14:66~15:15 

信仰告白‐ポンテオ・ピラトの前で苦しみを受け‐ 

見出し ペトロ、イエスを知らないと言う(:66~72)

    ピラトから尋問される(15:1~5)

    死刑の判決を受ける(:6~15)

マルコによる福音書からイエス・キリストの生涯を読んでいます。

前回は、イスカリオテのユダの裏切り、真夜中の最高法院での裁判の記事を読みました。

本日は、ペトロのイエスの否定と、ピラトの前での裁判の記事を読みます。

イエスが十字架刑に向かう中で、人々の闇はますます深くなっていきます。

嫉妬(15:10)・殺意に満ちた大祭司カヤファ、祭司長、律法学者、長老たち、パリサイ人たち。

金の欲に支配されたイスカリオテのユダ

身の危険の恐れに支配されたペトロと弟子たち

保身と責任を放棄したローマのユダヤ総督ポンテオ・ピラト

快楽と目に見えるものにしか興味のないガリラヤを統括していたヘロデ王

心変わりしていく民衆

人の罪と闇が渦巻く中、神の「御心」「聖書のことば」が実現していきます。

1、私たちの大敵「恐れ」(14:66~72)

ペトロは勇気をふりしぼって、身を隠しながらイエスの捕らえられた大祭司の中庭まで行きます。

イエスが人々に知られていたように、いつもすぐそばに仕えていたペトロも顔が知られていたでしょう。

大祭司の召使の女が、中庭で火にあたっているペトロを「まじまじと」見て「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と言います。ペトロは彼女の言葉を打ち消して、その場を去ります。鶏が鳴きます。

また別の女がペトロを見て、周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と言います。ペトロは否定します。

また、そこに居合わせた人々が「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言います。ガリラヤの訛りは隠せません。71節、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓います。

すると鶏が鳴きます。

「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出します。彼は我に返り、カヤファの官邸を出て、外で泣き崩れます。

ペトロはなぜイエスの弟子であると言えなかったのでしょうか。

一度目、二度目、三度の否定。彼の心の中に恐れが広がって行く様子がわかります。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかぬ人は幸いである。ふっと心に入り込んできた恐れが、大きくなっていき、最後には「呪いの言葉さえ口にしながら」とあります。否定のことばに止まらない、イエスの踏み絵を踏みつけるような、イエスをあざけるような言葉であったに違いありません。

恐れは私達の心を蝕んでいきます。信仰を失わせます。とてもやっかいな大敵です。*ペトロ、湖での出来事

恐れを引き起こすものは、苦難か、行き詰まりか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か、・・・。

コロナの感染、将来のこと、人のこと(人間関係)、健康、家族、仕事、経済、教会、自分自身の悪い習慣、、、

恐れに支配されてはいけません。イエスはいつも「恐れるな、私があなたと共にいる」と語って下さいます。

どうすれば、私たちの内から恐れを締め出すことができるでしょうか。

「愛には恐れがありません。完全な愛は、恐れを締め出します」(第一ヨハネ4:18)

完全な愛、それは神の愛、イエスの愛であります。ここに、私たちの大敵「恐れ」に打ち勝つ道があります。

2、ユダヤ人の王(15:1~15)

翌朝、再び最高法院が招集され、協議の後、イエスを縛ってピラトのもとへ連れて行きます。

マタイによる福音書では、「この男はわが民を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また自分が王たるメシアだと言っています」とイエスをピラトの前で訴えています。そして、ヨハネによる福音書では、「私達には、人を死刑にする権限がありません」(18:31)と告げています。

ピラトの前にイエスが訴えられた内容は、「彼は自分をユダヤ人の王だと言っている」というものです。

ピラトの行った裁判の中心テーマは、「イエスはユダヤ人の王である」というものです。

皇帝への税金もそうですが、ユダヤ人は人を死刑にする権限がないということばも偽りです。聖書の中には姦淫の女を石で打とうとした記事がありますし、最初の殉教者ステファノは、石で打ち殺されました(使徒言行録7:57~60)。ヨハネは、「イエスのことば『人の子は上げられなければならない。(3:14)』が実現されるため」と記しています(18:32)。「神の御心」は異邦人の手に渡され、神に呪われて十字架の上にあげられることです。しかし、最高法院の「死刑にする権限がない」と言った動機は何でしょう。自らの手で処刑せず、ローマの権限の下で刑を執り行う。なぜでしょう。民衆の反応です。彼らは民衆の反応を恐れていました。民衆の多くがローマの支配から解放するイエスはメシヤであると期待を持っていたからです。彼らのもくろみは、ローマの支配権の下に屈服しているイエスを見せることにあったかも知れません。見るべきものもない惨めな姿で「この人を見よ」、民衆の前に立っているイエスを見せることで、民衆の落胆、裏切られた期待、怒りは膨れ上がり、その心変わりは白から黒へ、180度裏返ることがわかります。悪意ある謀略。

ピラトはイエスに尋問します「お前はユダヤ人の王なのか」。イエスは答えられます「それはあなたが言っていることだ」。「あなたがそう言っています。」(新改訳)直訳すると、そのような言葉になります。

口語訳は「そのとおりである」と訳しています。肯定したことばと受け取るか、別の意味か。

少し掘り下げて私なりに意訳してみますと、あなたの言っているユダヤ人の王という意味と、わたしの宣言するユダヤ人の王とは異なる。それはあなたが、私を訴えようとする者の、彼らの口から聞いた、ローマから独立しようと反乱を起こそうとするユダヤ人の王の意味です。

わたしはユダヤ人の王ではあるが、あなたの言うユダヤ人の王とは異なる。イエスのピラトへのことば、「それはあなたが言っていることだ」となります。

イエスは、ユダヤ人の王です。そして天地を造られ、ひとり子をこの地に送られた、父なる神に従う者の王です。ユダヤという民族の、血統のみの王ではなく、聖書にあるまことの神に従う者の国、神の国の王なのです。イエスは我らの王です。イエスは私たちにとって、ただおひとりの神の御子、救い主です。そして、大祭司であり、力ある預言者であり、王です。

イエスは、私たちと神を執り成す、十字架で流されたご自身の血を携えて父なる神の前に立つ大祭司です。イエスは、日々に神のみこころ、そのご計画を、聖書のみことばをもって語り、それに生きる力を与える預言者です。そして、イエスは、私たちにとって、崇むべき、ほめたたえるべき、ひれ伏すべき、忠義を尽くすべき王であることを知らなければなりません。

イエスはその後、祭司長のいろいろな訴えの言葉にも、ピラトの尋問にも、ピラトが不思議に思うほどに何もお答えになりませんでした。

祭りの度に、ローマの恩赦として、囚人が釈放されました。ピラトは投獄されていた人殺しのバラバを引き出し、恩赦を与えて欲しいのは、バラバか、それともイエスか群衆に問います。ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放して欲しいのか」とイエスを、ユダヤ人の王と指さします(:15:9、12)。群衆はバラバを釈放するよう要求します。ヨハネ19:15では、祭司長たちは「私たちには皇帝の他に王はありません」と言っています。

ついに群衆は、イエスを「十字架につけろ」とピラトに叫び続けます。

ピラトはイエスを釈放してやりたいと願っていましたが、群衆を満足させる為に、バラバを釈放し、イエスを鞭打って、十字架につける為に引き渡します。

私の人生において、「イエスよ、あなたこそが、私の王です」とひれ伏して、心からほめたたえることのできる者はさいわいです。この憐みと愛に満ちた王が、私の人生から「恐れ」を締め出してくださいます。

竹田広志's Ownd

千葉県八千代市勝田台7-27-11 電話 0474-84-5045 牧師 竹田広志

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