5月16日(日)礼拝説教全文
「十字架につけられ」 マルコ15:16~32
前回:ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け
-罪ある者の友となれらた(同じになられた)イエス-
見出し
兵士から侮辱される(:16~20)
十字架につけられる(:21~32)
十字架につけられる直前(ヨハネの福音書では民衆の前に引き出される前)イエスは鞭打たれ(:15)、ローマの兵士はイエスに紫の衣を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、葦の棒で叩き、唾を吐きかけ、「ユダヤ人の王、万歳」とイエスを侮辱しました。
そして、紫の衣を脱がせて、十字架につけるために外へ引き出しました。
先週の説教題は「イエスは我らの王」とし、イエスに対する人々の訴えの中心は「ユダヤ人の王」であるとお話ししました。イエスを嘲笑する茨の冠も、紫の衣も、「ユダヤ人の王」に対する彼らの皮肉です。しかし、イエスはまことに王です。王であるお方を、王と知らずに、イエスを侮辱しています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」(ルカ23:34)罪状書きの「ユダヤ人の王」(:26)も、彼らの侮辱のことば「メシア、イスラエルの王」(:32)も同じです。イエスを嘲笑する者、反対者、敵対者の訴え、罪状書きも、イエスが「ユダヤ人の王」であることを繰り返し証言しています。イエスには何の罪も見当たらない。イエスを非難する罪状はない。ただ、イエスは、我らの救いの為に苦しみを受けられた「王」なのです。「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18)
誰かに侮辱されたり、ひどいことばを言われたり、パワハラ、モラハラ、ことばの暴力は、時に身体的暴力にまさって、私達にダメージを与え、すぐには癒されない深い心の傷を残します。
イエスはそのような苦しみの中にある者の心の傷、痛みを、知っていてくださいます。ただ知っていて下さるというのではなく、同じようにその苦しみを受けて下さったお方です。Amazing驚くべきことですが、私達のイエスは、その痛みをご自身が経験し、わかってくださる王なのです。だから、キリストの慰めは、イエスを信じる私達まで届き、私達を癒します。(第二コリント1:3~7)
イエスは拷問を受け、鞭を打たれた後に、重い十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼります。
イエスの十字架への道は、現在、ヴィア・ドロローサ(苦難の道)と呼ばれ、イエスが十字架につけられ、埋葬される場所(聖墳墓教会)にたどり着くまでに、14のステーション(留まって祈る場所)があります。それぞれのステーションに十字架の出来事のエピソードがあります。そして、第三ステーション、最初に倒れた場所、第七ステーション、二度目に倒れた場所、第九ステーション三度目に倒れた場所があります。三度目の場所はコプト正教会の入り口になっています。
イエスは疲労困憊して、十字架を担げなくなります。マタイ、マルコ、ルカに、その場に居合わせたキレネ(アフリカ北部)人、シモンがイエスの十字架を代わりに運びます。アフリカ系の黒人であったかも知れません。イエスの十字架を代わりに背負うのは計らずも異邦人です。マルコだけ、このシモンはアレクサンドロとルフォス(ローマ16:13)の父と書いて、その素性を明らかにしています。後にシモンも家族も、教会の一員になったのではないかという説もあります。
イエスの十字架を代わりに背負ったキレネ人シモンの名は語り伝えられています。
ゴルゴダ(どくろの意味)といわれる丘の上で、ローマの兵士たちはイエスを十字架につけます。丘の形状がどくろに似ていたのかも知れません。
没薬を混ぜたぶどう酒は、痛みを緩和させるものですが、イエスはお受けになりませんでした。
兵士たちはイエスの衣を、十字架の足元でくじを引いて分け合います。詩篇22:19にある聖書のことばが成就するためです。
イエスが十字架につけられたのは、午前9時でした。
十字架の上には、「ユダヤ人の王」と書かれた、罪状書きの板が取り付けられます。
また、二人の強盗と共に、強盗の一人は右に、一人は左に。ゴルゴダの丘に3本の十字架が立ちます。
マルコは淡々と十字架の出来事を書きます。
十字架のそばには、イエスの母マリアとマグダラのマリア、数人の女性、そしてイエスの弟子のヨハネがいました。イエスを訴えた祭司長、律法学者たちもいました。民衆もいました。ローマの見張りの兵士たち、監督の百卒長もいました。
人々は、十字架につけられたイエスを見上げて、イエスを罵ります。祭司長、律法学者たちも、代わる代わるにイエスを侮辱します。そして、イエスと共に十字架につけられた強盗達もイエスを罵ります。
十字架にはりつけにされて、尚も罵倒され、嘲笑されるイエス。罪深い我らが受けるべき全ての痛みをその身に受け、味わうために、罪なきお方が罪人の一人として数えられた、それが十字架の出来事であります。
何故に。私たち罪人の友となり、私達の罪を身代わりに受けて、私達を愛するが故に。
彼らは、「十字架から降りて自分を救ってみろ」「今すぐ十字架から降りるがいい」と罵っています。神の御子であれば奇跡を起こせ、神のお気に入りならば、神に救ってもらえという内容です。イエスは自分を救うことがおできにならないのでしょうか。できないのではない!できるがあえてしない。イエスは父に求めて、天から御使いの十二軍団を送ってもらい、そこにいる人々を滅ぼすこともおできになるお方です(マタイ26:53)
十字架のそばでイエスを罵倒する者も、敵対者も、ローマ帝国でさえも滅ぼし尽くすことがおできになる。私達であれば、イエスよ、このような人々は天から火を下し、滅ぼしてしまいなさい(ルカ9:54)と進言するでしょう。しかし、イエスは耐え忍ばれる。十字架から降りることも、おできになる。しかし、イエスを十字架に止めたのはローマの兵卒が打ち込んだ太い五寸釘ではない!イエスの愛が十字架にイエスを留めたのです。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる!
イエスの湧き上がり溢れる愛が、ご自身を十字架にはりつけにされ、最後まで苦難を忍び、十字架の死を成し遂げられた、根拠なのです。
「人がその友の為に命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15:13)
それはイエスの十字架の愛です。
イエスは私達を、罪から、死から、闇から救う為に十字架で命を捨てて下さいました。ここに神の愛があります。
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